●阪和電気鉄道→南海鉄道山手線→国鉄阪和線
1944年5月1日買収

<路線概要>
 買収国電の多くが地方線区であるのに対し、当線は大都市を起点にする都市間路線、それも当時の最先端を取り入れた大電鉄である。
 
 1923年7月10日に敷設免許を受けるが、その路線は南海鉄道の完全な平行線である。その背景には明治以来、同鉄道を買収できなかった国が民間活用で第2の鉄道を敷設させるという意図があった。
 1926年4月に設立された当社は先ず第一期線として阪和天王寺〜和泉府中および鳳〜東羽衣の支線を1929年7月18日に開業、その翌年の1930年6月16日に東和歌山(現在の和歌山)までを開通させている。うち、阪和天王寺〜南田辺は大阪鉄道(現、近畿日本鉄道南大阪線)が保有する免許(旧・南大阪電鉄)を譲りうけて敷設され、開業当初より連続高架になっている。

 全線複線(支線を除く)で高速運転向きの規格と重量級の大馬力車輛は、同時期に開業した新京阪鉄道(現在の阪急電鉄京都線)と共通点を見ることができ興味深い。これは、阪和の経営に新京阪の親会社である京阪電鉄の経営陣が参加していたことが関係している。当時の同社は電力会社としての側面が強く、和歌山にも事業進出していたが、電力供給の面でも阪和への協力を行っている。

 しかし、海沿いの古くからの集落を結んで走る南海鉄道と対照的に、山手に敷設された当線の沿線人口は希薄であった。このことは、必然的に大阪と和歌山以南の直通旅客獲得への努力に結びつき、1933年には国内最高表定速度による特急電車の運行へつながる。この時の天王寺〜和歌山間45分・81.6Km/hの記録は、戦後国鉄151系電車による特急こだま号東京〜大阪間6時間30分運転開始まで破られず、当線では1972年に113系電車による新快速が運転されるまで取り戻すことができなかった。

 一方で、過剰ともいえる施設投資は経営を圧迫したが、数々の経営努力と満州事変に伴う旅客流動の増加により解消し、1938年には3割配当に至った。が、それでも阪和電鉄の経営は借入金が多く不安定であること、南海鉄道との過当競争等が指摘されていた。
 結局、陸上交通統制法の絡みもあり、1940年12月1日、南海鉄道に合併され同社山手線となり、阪和電鉄はその短い歴史に幕を閉じる。
 しかし、南海時代は長くは続かず、1944年4月1日、国に買収された。買収理由には和歌山付近の貨物輸送等も上げられるが、大阪と和歌山を結ぶ念願の鉄道を国は手に入れたことになる。

 これにより、阪和線は紀伊半島へのメインルートになり、数々の長距離列車も走るようになった。が、阪和線単体で見た場合、大阪近郊の路線としては2〜3級扱いで、数々の新機軸を取り入れた戦前に比べれば、施設改良・新車投入等は他路線に比べ後回しになり、不遇であった。それは民営化された今も、基本的に変わらないように見える。

 なお、阪和は、途中の紀伊で分岐し国鉄和歌山線の粉河に至る路線免許を1928年に獲得していた(1942年失効)。また南海時代にも六十谷から南海線の紀ノ川を経由して加太線の東松江に至る路線免許を1943年に取得していたが、こちらも紀ノ川〜東松江をのぞき未成に終わっている。

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