●阪和電気鉄道→南海鉄道山手線→国鉄阪和線
1944年5月1日買収

<車輛解説 前篇>
 阪和電鉄は開業にあたり、参宮急行(近鉄大阪線の一部)や阪急、新京阪と同様に、大出力モーターを備えた大型鋼製電車を投入している。その中でも200馬力モーター・AMUブレーキと魚腹台枠を持った車体が特徴で、これは資本的に関係のあった新京阪電鉄デイ100型と共通している。
 その後、南海合併の時期に車両の増備が行われるが、開業時に用意した車両は電動車が多かったため、この時は制御車が多かった。その中には、ローカル私鉄から譲渡された木造車も含まれている。

 戦後は、他の買収国電と異なった歩みをたどる。すなわち標準設計車と同様のグローブベンチレーター・プレスドア・雨樋の取りつけなどの更新修繕工事が行われ、またパンタグラフ、制御機の国鉄標準型へ変更が行われた。両運転台車は全て片運転台化されている。
 これにより4桁番号を経て、1958年の改番で国鉄標準設計車と同様の番号体系に改められている。また、重量級の大型車であることから他の買収線への転属はなく、変わりに片町線に転属した車両もあり、買収国電が買収線以外で旅客営業に使用された数少ない事例になっている。しかし、いずれにしても買収後は2級扱いされ、1966〜68年にかけて一斉に置換えられて消滅してしまった。

 なお、阪和電鉄は「モヨ」「モタ」など特徴のある車両記号を用いていた。
その意味は
 タ=縦組座席(ロングシート車)
 ヨ=横組座席(クロスシート)
 テ=手荷物合造車(いわゆる「ハニ」)
 カ=貨物電車(他社での「デワ」「モワ」等)
である。


●旅客車    
・A 阪和時代増備車両
・モヨ100(101〜107)→モヨ100→モハ2200(〜2205)→クモハ20(050〜055)
・クヨ500(501〜506)→クヨ500→クハ6200(〜6206)→クハ 25(050〜056)
 東和歌山までの全通に備え1930年に川崎車輛で製造した車輛である。ヨの名前があらわすとおり、車内には転換クロスシートを備えていた。
モヨは両運転台で大型のパンタグラフを2つ装備、クヨは和歌山向きの片運転台車で天王寺側の側面はフラットになっていた。
1933年から運転開始した超特急に用いられるなど華やかな活躍をしたが、1939〜40年にかけてロングシート化がおこなわれている。

 買収後、1944年6月27日に発生した山中渓の追突事故でモヨ103が犠牲になり休車、1949年に正式に廃車になっている。しかし、1952年に木造国電のクハ17075の車籍を流用してクハ507として復活している。これにより、1953年改番時はモハが1輌減りモハ2200〜2205に、クハは1輌増えクハ6200〜6206になった。
1957〜58年にかけて3扉化・片運転台化され、1959年改番では、それぞれクモハ20・クハ25の50番台に区分された。

 廃車は他車と同じく1966〜1968年にかけて実施されたが、このうち1966年廃車のクモハ20052・20054の2両が、盛岡工場で両運転台化、歯車比変更等の改造を行った上で岩手県の松尾鉱業(大更〜東八幡平)に譲渡されクモハ201・202になった。同社は機関車牽引による旅客列車を電車化するために購入したが、当型式が選ばれた背景には、急勾配区間を国鉄直通のキハ52を牽引して走るため高馬力車が必要とされた為であると思われる。
 しかし松尾鉱業(松尾鉱山)は、産出していた硫黄が輸入品や工場の脱硫装置等で回収されたもので国内の需要を賄えることから、存在意義を無くし1968年に倒産・閉山し、鉄道も1969年に休止(以降貨物のみ復活したが1972年廃線)になった。

 通常なら、ここで路線の終焉と同時に廃車解体になるパターンが多いが、この2両は運良く青森県の弘南鉄道に引き取られることになった。同社は弘前電気鉄道(現・大鰐線)を買収した直後であったが、同電鉄の引継車には木造車が含まれ、この代替が急務になっていたためである。
 しかし、重量制限・変電所容量をクリアできないため、台車・モーターはモハ2521とモハ2232の100Kw装備のものに交換し、同社のモハ2521・モハ2232は当車の台車(KS-20)を履いたが、200馬力モーターは破棄され制御車化されている。また、再度片運転台化された。
 こうして弘南鉄道(弘南線)モハ2025・2026として、1971年に竣工したものの、1978年には東急3600系の入線に伴い制御車化されクハ2025・2026になった。この時に台車は、KS-20に戻されている。また、クハ2026は非貫通化された。
 幾多の変遷を経て使用された両車も、寄る年波には勝てず、もと東急7000系の入線により、1989年に廃車・解体された。

・モタ300(301〜330)→モタ300→モハ2210(〜2237)→クモハ20(000〜037)
・クテ700(701〜704)→クテ700→クハ6220(〜6223)→クハ 25(000〜003)
・クタ750(751)   →クタ750→クハ6230(〜6231)→クハ 25(004〜005)
 こちらは一般的な3扉ロングシート車で、モタ300が両運転台の電動車で大型パンタグラフ2基を装備、クテ700が同系の片運転台の手荷物号造車、クタ750が片運転台の制御車である。クテ・クタは運転台のない天王寺側妻面はフラットになっていた。
先ず天王寺〜和泉府中および羽衣支線の開業時に、モタ301〜315の15両が1929年7月に竣工(日本車両製)している。続いて同年11月〜1930年1月に掛けて316・317クテ701〜706を増備している。このうちクテ705〜706は1933年に電動車化されモタ321・322になっている。
 更に、1934年に323・324、1935年に325〜327751を増備した。このうち325〜327は回生制動がつけられている。1937年に増備された328〜330はメーカーが汽車会社になっている。これも回生制動付きになる予定であったが、計画のみに終わっている。

 買収後、1944年6月27日に発生した山中渓の追突事故でモタ313が犠牲になり休車、1948年に正式に廃車になっている。また、南海時代に火災事故を起こし休車のまま買収されたモタ307は1949年に廃車されるが、1952年に伊那電鉄買収車のサハフ311の車籍を流用してクハ752として復活している。クテの手荷物室は1950年に撤去、モタは1947〜1952年に片運転台化された。
 1953年改番時はモタが2輌減りモハ2210〜2237に、クテ・クタはほぼ同形態であったがそれぞれ別形式が与えられ、クハ6220〜6223、クハ6230〜6231になった。1959年改番では、クモハ20・クハ25ともに0番台にまとめられている。
 他車と同じく1966〜1968年に廃車になった。

・クタ800(801〜804)(買収対象外)
 1939年に増備されたこの車両は当鉄道唯一の木造電車で、茨城県の筑波鉄道(土浦〜岩瀬)から譲渡されてきた車両である。筑波鉄道は岩瀬〜宇都宮の路線延長と電化を予定して9両の電車型客車(ナハフ101〜105、ナロハ201〜204)を1925〜1927年にかけて日本車輛で製造した。しかし、恐慌により延長計画は中止になり、電化は柿岡地磁気観測所の関係で実現しなかった。ガソリンカー運転開始後は余剰となり、1938年にナハフ102、ナロハ201・202・204が阪和にやってきた。当初は附随車として使用予定であったが後に制御車に変更され、1939年に102・201・202・204の順にクタ801〜804として竣工した。なお、同時期に筑波ナハフ101・ナロハ203が三河鉄道(現:名古屋鉄道三河線)に譲渡されて電車化(三河サハフ311・デ151→名鉄ク2121・モ1091)されている。
 南海合併後、南海線に転属の上、鋼体化・電動車化を行いモハ1101〜1104にする計画が立てられた。このため買収対象からはずされている。しかし、この計画は戦争の激化により実現しなかった。
 戦後になり、近畿日本鉄道(当時、南海が合併)は蒸気機関車C10001〜1003(石原産業海南島工場用に製造されたもの)を購入したが、この列車用に当車が充てられた。クハ801〜804→サハ3801〜3804と改番されて使用されたが、営業用電源の為にパンタグラフが載せられ、みかけはより電車らしくなった。
 この蒸機列車も近鉄・南海分離後に廃止になり、当車は1952年に廃車になった。このうちサハ3804は同年製造された南紀直通用客車のサハ4801に改造されたことになっているが、名義のみの模様である。

なお、これとは別に、もと日本鉄道の国鉄ホハフ2850を購入しサタ850として竣工させる計画もあったが、これは中止になり、ホハフは富士山麓鉄道(現:富士急行)に再譲渡された。同社では木造車体を新造しハニ252として竣工した。


・B 南海合併期増備車両
・モタ3000(3001〜3004)→モタ3000→モハ2250(〜2254)→クモハ20(100〜103)
・クタ3000(3005〜3006)→クタ3000→クハ6240(〜6242)→クハ 25(113〜115)
・クタ7000(7001〜3013)→クタ7000→クハ6250(〜6262)→クハ 25(100〜112)
 モタ300のフルモデルチェンジ車で、魚腹台枠は変わらないが、車体は大きく変わり、窓は2個ユニットで隅に大きなRのついた一段窓、ノーシルノーヘッダーの美しい車両である。阪和時代に設計・製造されたものの竣工したのは南海に合併後の1941年である。
 先ず1941年にモタ(クタ)3001・3002、クタ7001・7002が日本車両で製造された。モタは当初未電装で1942年に電装されている。これらの車両は金属屋根で雨樋がなく、最も美しいタイプであった。またモタは両運転台、クタは片運転台で竣工している。
 続いて1942年に、モタ(クタ)3003〜3007が日本車両で、クタ7003〜7007が帝国車両で、更に1943年にクタ7008〜7013が日立製作所で製造された。こちらは布張り屋根となり、雨どいが取りつけられている。また、モタはやはり未電装で出場したが、1944年に3003・3004が電装されただけで、残りは未電装のままであった。なおクタも両運転台で竣工している。なお、更に7014〜7017が増備予定であったが、これは未竣工に終わった。

 買収後、クタは1948〜1954年に片運転台化(モタ3000は1958・1959年実施)されている。1953年改番では、モハ2250〜2254、クハは同形態ながらやはり3000と7000で分けられ、クハ6240〜6242クハ6250〜6252になった。1959年改番では、それぞれモハ20・クハ25の100番台になった。


・クタ600(601〜605)→クタ600→クタ6210(〜6214)→クハ25(200〜204)
 南海合併後の1942年に日本車輛で製造された両運転台の制御車である。スタイルは南海1201型に順じた2扉車で、魚腹台枠も採用していない。完全に南海型の車輛であった。
 1958年改番では何故か10番台を与えられ、クハ6210〜6214になったが、1959年改番ではクハ25の200番台を名乗っている。1957年に3扉化されている。


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