●伊那電気鉄道→国鉄飯田線(天竜峡〜辰野)
1943年8月1日買収
<車輛解説>
伊那電の車両は600V時代は単車が殆どで、晩年にボギー車を3両投入している。しかし、単車は昇圧の際に淘汰され変わって投入されたのがダブルルーフ・切妻の木造電動車である。最後に増備されたのは鋼製車になったが、ダブルルーフは相変わらずだった。
一方、伊那電は制御車を持たず、サハニフといった(合造)附随車を牽引する形をとっていた。
こちらも大半は同系の木造車であったが、最終増備車はシングルルーフの鋼製車になり、電動車よりスマートな形態をしていた。
ここで、この附随車の使用が絡む飯田線4社直通について述べる。
三信鉄道の開業により、延長190キロに及ぶ電化区間が誕生したが、伊那電のみ架線電圧が1200Vだったため、電動車の直通はできず付随車のみが直通していた。複電圧対応の電動車による直通運転は、買収後の1949年からで、伊那電・豊川モハ10以外の社型と、伊那松島に転入してきたもと富士身延のモハ93を使用して行われた。この身延車の転入にともない、伊那のオリジナル車は富山港、仙石へ転出している。伊那電区間が1500Vに昇圧されたのは1955年のことである。
なお、伊那電では当初電動車は形式・表記ともデであったが、晩年の表記は「デハ」であった。
●旅客車(1) 電動車
変遷表はこちらです。
・デ100(デハ100〜102)→
デハ100→モハ1900(〜1901)、クハ5910
・デ200(デハ200〜205)→
デハ200
・デ110(デハ110〜112)→
デハ110→モハ1910、クハ5920
・デ120(デハ120〜124)→
デハ120→モハ1920(〜1924)
1923年〜1927年に製造された省線木造電車タイプの15m級車である。まず
1〜8(デ100型
と
デ200型)
が1923年に汽車会社で製造された。同じ車体でありながら形式が分かれたのは、主電動機出力と歯車比が異なっていたためと思われる。
つづいて
デ110型
が1924年に日本車輛で、
デハ111、112
が松島工場で製造された。車体長は
デ100、200
とほぼ同じであるが、ドア間の窓が一枚づつ増えている。このうち
デハ110
は1928年に三河鉄道(現在の名古屋鉄道三河線)に譲渡され、
デハ112
が
デハ110
に改番された。
ここまでが木造であるが、1927年に日本車輛で製造された
デ120型
は鋼製となった。但し、スタイル的にはデ110とほぼ同一で、屋根はWルーフであった。
買収後は、殆どの車輛が富山港線に転属した。ここでは、車輛部品の節約等を理由に制御車化、あるいは片運転台化が実施され、1953年改番で形式が細分される理由にもなっている。なお
デハ200型
のみは改番前に除籍され、
デハ200
が伊豆箱根鉄道大雄山線モハ45に、
デハ204
が岳南鉄道モハ201に、それぞれなった。その後、前車は1959年に車体を西武鉄道モハ236のものに変更、後車も同年日車標準型に車体を変更しモハ1101になった。このうち、岳南モハ1101は近江鉄道に譲渡されたが、その後名義上はモハ221に更新されてため、車籍上は現在も生きていることになる。
一方残りは、木造車が1954年〜1955年に、鋼製車が1957年に除籍され、やはり地方私鉄に譲渡されている。
まず、上田丸子電鉄は木造の
モハ1901
と
クハ5920
を購入し、モハ5261とクハ261として丸子線に投入したが、1959年に東横車輛碑文谷工場構内に放置してあった東急3150・3200戦災復旧車の車体を利用して鋼体化が行われた。
北陸鉄道では木造の
モハ1910
と
クハ5920
、鋼製の
モハ1920〜1923
が入線し、モハ851、クハ501、モハ3101〜3104になった。モハ3103・3104が石川線所属になった以外は浅野川線に投入され、当初はポール集電であった。クハ501は後に電装されモハ852になっている。しかし、木造車モハ851・852は62年に解体・除籍され、モハ3101〜3104も晩年は石川線に集結したものの除籍になり、一部は漁礁として海底に静められた。なおモハ3101の正面にはホロ枠が取り付けられたが、実際に使用したことはあったのだろうか?
新潟交通には
モハ1924
が入線し、モハ19になった。東関屋〜県庁前の併用軌道を走行するため、排障機を前面に付けていた。新潟交通の電動車は殆どが日車標準型に載せかえられたが、最後の更新となった当車だけは小田急1400型の車体を使用し、1969年に更新されている。
●旅客車(2) 付随車
変遷表はこちらです。
・サハニフ200(200、210、220)→
サハ100
600V時代の電動車を昇圧後に電装解除して付随車化した車輛。1920年日車製で製造当初は
ホ1〜3
であった。
付随車化当初は全室3等車の
サハフ300・ 301
、2・3等合造車の
サロハフ200
であったが、1929年にいずれも荷物室付3等車に改造されている。買収後はあまり大きな動きもなく1950年〜1951年に除籍された。
・サロハユニフ100(100〜102)→サハユニフ100→
サハユニフ100
・サハフ310(310〜311)┬→ →
サハフ310
└──→サハユニフ110→
サハユニフ110
こちらは電動車と同系統の車体を持つグループで、1924年に
1〜3(サロハユニフ100〜102)
が日本車輛で、
サハフ310〜312
が1927年に汽車会社で製造されている。特に前車は2等・3等・荷物・郵便室に分かれ、本邦唯一の4種合造車であったが、1937年に2等室は撤去されている。一方後車は312が1937年に郵便・荷物室を取り付けたことで、
サハユニフ110
に改番された。
買収後、1945年2月の三河川合付近での落石事故で、サハユニフ100が三信デハ306と共に転落粉砕している。残りはサハフ310が客車化の上救援車化、サハフ311が名義上クタ752に改造された以外は、救援車に改造されて各電車区に配置され、文字通り「飯田線の生き証人」として最後まで当線を離れることはなかった。
・サハニフ400(400〜404)→
サハニフ400┬→サハニ7900(〜7902)
└→クハ5900(〜5901)
伊那電最後の増備車になった車輛で、同系の電動車を持たない半鋼製車である。1929年に
サハニフ400〜404
が日本車輛支店で製造された。伊那電唯一のシングルルーフ車、またクロスシート車であった。
買収後、
サハニフ402〜404
が仙石線に転属、1953年改番で
サハニ7900〜7902
になった。その後1957年に除籍になり、
サハニ7901・7902
が弘南鉄道に譲渡された。同社では荷物室側エンドを利用して運転室を設置クハニ1272・1271になった。その後はもと身延の電動車と共に活躍し、晩年は大鰐線で使用された。何度も除籍候補になりながら意外に長生きをし、1985年・1989年に除籍された。うち1271は、津軽ワイン尾上工場に運ばれたものの程なく解体。1272は沿線の東奥義塾高校のサッカー部の部室として校庭に鎮座している。しかし、保存状況が悪化しているように見え、今後については余談を許さないと思われる。
一方、飯田線に残った2両は1927年に荷物室を撤去し、運転台を設置し、改番で
クハ5900・5901
になった。その後、1958年に
クハ5900
は三菱電機製部品を、
クハ5901
は日立製作所製部品を積み交流試験車に改造され、それぞれクモハ73039、050改造の電動車と編成を組んだ。この編成はクハにパンタグラフや集電機器を搭載し、モハは屋上機器類がなかったことが特筆される。その後1959年には
クヤ490-1、11
に改番、1960年の試験終了後は
クハ490‐1、11
として旅客営業に供されたが、1966年に除籍・解体された。
弘南鉄道クハニ1271(伊那サハニフ404)
左:現役時 (提供:コトキチ様)
右:現在は車体のみ東奥義塾高校の部室として利用 1999-5-4
▼伊那電気鉄道 車輛解説 後篇へ
▲伊那電気鉄道 概要へ
▲買収国電のプロフィール 表紙へ