●宮城電気鉄道→国鉄仙石線(旧 松島電車を除く)
1944年5月1日買収

<車輛解説 後編>
●旅客車(2) モハ800型     変遷表はこちらです。
・クハ801→モハ801(〜802)┬→モハ801(〜807)┬→モハ2320(〜2332)┬→
・     モハ803(〜805)┤        │         ├→クモハ2340(〜2341)
・クハ881→モハ806(〜807)┘        │         └→クハ 6340(〜6342)
・              モハ810(〜813)┘

 一族13両を数え、阪和車を除けば1形式で最大両数を誇ったこのグループは、1937〜1946年にかけて製造された車輛。半流線型の前面にやや大きめの2段窓を備えた、明朗な16m級2扉車である。
 先ず1937年にクハ801・802が日本車輛支店で製造される。翌年には電装されモハ801・802になった。続いて1941年にモハ803〜804が同じく日本車輛支店で、またクハ881・882が日本鉄道自動車で製造された。クハ881・882は1944年に電装されモハ806・807になった。これらが、宮城電気鉄道時代に完成した車輛で、客用ドア幅が900mm、またモハ801・802・806・807の車内はクロスシート(後にロングシート化)であった。
 さて、宮城電気鉄道が日本車輛支店に発注したものの、完成が遅れ戦後に漸く完成したものを1946年に国鉄が引き取ったのがモハ810〜813で、こちらはドア幅が1100mmである。なお当初予定では全部で24両を製造する予定であったらしい。
 こうして誕生した一族であるが、戦後は連合軍専用車にモハ801・802・811・813が指定され、特に801・802は便所の設置まで行われた。またモハ807以外は台車をDT10に変更し、主電動機の出力アップを実施している。またモハ803は、ドア幅を800mmから1100mmに拡大し、ドア間のクロスシートを復活させている。
 1953年改番で、モハ2320〜2332になった後、1954年にはモハ2320が運転室拡張工事を行い、グローブベンチレータ化されている。続いて、1957年にはモハ2324・2325・2329が両運転台のまま制御車化され、クハ6340〜6342に、1959年改番では片運転台化されていたモハ2327・2328が形式分離されモハ2340・2341に改番されている。
 車齢が若いことから国鉄で引き続き使用されたが、結局国鉄標準設計車の転入で1957年にモハ2321・2322が除籍、残る車両も1962〜1964年に除籍・解体され、残念ながら私鉄への譲渡車は存在しない(越後交通長岡線で購入予定があったが結局実現しなかった)。
 なお、一番長生きしたのは1957年に宇部線へ転出以降、可部線・富山港線と渡り最後は幡生工場の入れ替え車になっていた、モハ2326(モハ807)で1965年に除籍になった。


●電気機関車
・キ1〜2(→キワ2)→ED271〜272→ED27 1〜2
 両車とも、もともとはウェスティングハウス型の凸型電気機関車で、先ずキ1は1924年ボールドウィン+ウェスティングハウスで製造された。これと同じ電機部品を使用し、日本車輛で製造した同型車がキ2で1925年製である。しかし、このキ2は1928年に車体を箱型の貨物電車型に大改造され、キワ2となり似ても似つかぬ車両になってしまった。両車合わせていわゆる東北式の重量であらわす形式、ED271〜272に改番されたが、買収後の1952年改番の後もこの車番を継続使用している。1950年に宇部線に転属、1960年に除籍されている。


・ED353→ED35 3→ED28 11
 こちらは戦時中の1942年に東芝で製造された凸型電気機関車である。いわゆる東芝戦時型であるが、これは一回り小さい35t機である。なお、末尾が3であるのはED271・272の後を追ったためである。こちらも1952年改番後も、もとの形式を継続使用している。
 1956年には飯田線に転属、しかし余剰気味で一時期三岐鉄道に貸し出されたこともあった。1961年改番でED2811に変更された。そして、1964年に京福電気鉄道福井支社に譲渡されテキ531になる。これは、もと国鉄EC40型の同社テキ521を復元保存のため国鉄が再購入することになり、その代償として入線したものである。しかし、ここも安住の地ではなく、結局1970年代後半に除籍された。
・類似車輛参照

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