●青梅鉄道→青梅電気鉄道 →国鉄青梅線(立川〜御嶽ほか)
1944年4月1日買収
●奥多摩電気鉄道(未開業線)→国鉄青梅線(御嶽〜氷川)
1944年7月1日買収

<路線概要>
 現在は中央線の支線的性格の強い青梅線は、当初玉川上水に沿って新宿〜羽村間を敷設し石灰石を輸送するはずだった馬車鉄道が、諸般の事情により新宿〜八王子の蒸気鉄道(つまり甲武鉄道→中央線)に変更されたことから、青梅への支線建設を甲武鉄道に依頼したことにはじまる。これは拒否されたが、地元資本による鉄道建設には協力する姿勢を示したことにより、自力で鉄道敷設をすることなった。
 1891年に当社が設立され、1894年に立川〜青梅間で762mmゲージの蒸機鉄道として開通した。翌年には日向和田(現宮ノ平付近)迄の貨物線が開通(この区間の旅客営業開始は1898年)し、設立目的のひとつである石灰石輸送を開始、またその採掘を自ら行なった。このために、安田・浅野(セメント)の資本が当初から参入している。
 また、甲武鉄道の培養線的性格も強く、最初の3年は同社に委託経営していた。その後、石灰石事業が軌道に乗り、また多摩川の筏が鉄道輸送に切り替わったことによって輸送量が増大したため、以前より不便であった立川駅での荷物の積み替えを解消する目的もあり、1908年に1067mmに改軌した。
 この時から本格的に浅野が参入し、1920年に雷電山の石灰石採掘を目的に二俣尾へ延長、この時石灰石の採掘権を浅野が譲り受けている。1923年には1200V電化(1930年 1500Vに昇圧)した。1929年に青梅電気鉄道に改称、さらに御嶽神社への参詣客輸送を目的に御嶽まで全通した。

 しかし、石灰石の枯渇が見えてきたため、浅野はさらに多摩川上流の日原に鉱床を求めることになる。このために、1928年に御嶽〜氷川(現・奥多摩)の地方鉄道免許を取得した。急峻な地形から予想される難工事と不況により着工は伸び伸びになったが、東京市の水源として小河内ダムの建設が決定したこともあって、1937年に青梅電鉄、浅野セメント、日本鋼管が中心となって奥多摩電気鉄道が設立され、同社の手によって敷設されることになった。1939年に着工したが、戦中のため資材難や労働力不足で完成が遅れ、未成のうちに買収されることが決定した。そして、南武・青梅が買収から遅れること3カ月、1944年7月1日の開通と同時に買収された。

 さて青梅電鉄は、買収後暫らくしてバス部門を子会社の奥多摩振興(この会社は後に京王系となり、同じく京王系列となっていた五王自動車、高尾自動車と1963年に合併し、西東京バスになった)。電鉄本体は1945年10月に一度解散を決議し、会社清算に入ったが払い下げ運動の為に中止、以降産業はなくなっが資産管理、役員4人のみの会社として、青梅駅の地下に本社を構えていた。それも1995年10月に解散し、文字通り青梅電気鉄道は消滅した。
 また奥多摩電気鉄道は、奥多摩工業(外部リンク)に社名を変更、氷川・日原の石灰石採掘を行い、長く青梅・南武線のセメント輸送に関係することになる。しかし、鉱石輸送の事情変化により1997年、両路線の石灰石輸送はその長い歴史に幕を下ろした。

旧青梅電鉄本社の青梅駅
1997年6月14日
西東京バスの青梅沿線の路線は
もと青梅電気鉄道(→奥多摩振興)のもの
であった。
1997年6月14日 奥多摩駅
青梅電気鉄道のアイデンティティ的
存在であった石灰石列車も今はない
1997年6月14日 拝島
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