●青梅鉄道→青梅電気鉄道 →国鉄青梅線(立川〜御嶽ほか)
1944年4月1日買収
●奥多摩電気鉄道(未開業線)→国鉄青梅線(御嶽〜氷川)
1944年7月1日買収

<車輛解説 前篇>
 電化にあたり、英国から電気機関車を輸入、電車形客車を電装した車両を登場させた。
その後は、昭和初期に中型〜大型の鋼製電車を取り揃えたあと、車両増備は途絶える。それが再開されるのは、大東亜戦争開戦直前の時期で、東京西側の私鉄の多くが辿った経緯に似ている。

 青梅の買収車の最大の特徴は、買収後比較的早くに、旅客車の電装が外されたことが挙げられる。これは、青梅の電車がイングリッシュエレクトリックの電気部品を使用し、電動機支持がバーサスペンション方式(国鉄はノーズ・サスペンション)であったことが最大の理由で、他にも青梅電鉄時代の職員の大半が退職していたことが挙げられる。そして、衝突事故が頻発したこともあり、1940年代後半には殆どの車輛が使用停止もしくは、客車改造されていた。特に鋼製車の客車改造は青梅車が唯一である。
 これでも車輛不足に陥らなかったのは、戦前から国鉄車によるハイキング電車が乗り入れていたため、標準設計車を投入することができたためである。
 一方、奥多摩電気鉄道の買収車は製造中だった電気機関車1両のみである。

 なお、当線を語るとき、立川飛行場との関係は切り離せない。当線の西立川〜拝島間の北側には、軍の飛行場およびその関連工場が広がっていた。軍は機密を守るため、この区間では飛行場側の窓の鎧戸・遮光幕を降ろさせていた(同様の例は呉線などにもある)。しかし太平洋戦争の激化により、その末期には機密保持を徹底させるべく、窓ガラスを白ペンキで塗りつぶしていた。そして、このような環境下を走るため電車は機銃掃射の標的となり、被害・犠牲も出ている。


●旅客車(1) 木造車    変遷表はこちらです。
・ホハ1(〜3)→デハ1(〜3)→モハ1001(〜1003)→モハ1001
 電化前の1922年に梅鉢鉄工所で製造した電車型客車ホハ1〜3を、1923年の電化時に電車化した車輛である。秩父鉄道・武蔵野鉄道に同系車がいた。1933年の改番でモハ1001〜1003に改番、また、1939年には車体の簡易鋼体化が行われている。なおモハ1002は1943年に後述するクハ507・508に主電動機を譲ってTc化されている。
 買収後は、モハ1001が1945年に電装を解除されたあと、客車化改造され、最後は救援車になっていた。モハ1002は澤井で衝突事故を起こしそのまま除籍。モハ1003は永福町車庫の全焼で極端な車輛不足に陥った東急井の頭線(現在の京王井の頭線)に貸し出されたが、返却後すぐに休車になり、のち廃車になっている。

・デハ1(4)→クハ4→クハ4
・クハニ1(〜2)→クハニ1
 電化後の1924年に増備した車両で日本車輛支店製である。デハ4は電気品が共通であったことから、デハ1の追番になっている。またクハニ1〜2もパンタグラフを備えていた。なお、デハ4は1932年にTc化されクハ4になっている。また、クハニ1〜2は1933年に荷物室を撤去しクハ1〜2になった。
 買収後は五日市線用に客車化されたものもあるが、1949年には除籍されている。

・サハ10→サハ10
 1941年に入籍した車両で、もと国鉄サハ19型である。国鉄時代末期は電車回送用控車であまり使用されていなかったらしい。なお同様の境遇の車輛に鶴見臨港鉄道のサハ361がある。
 買収後、南武線に応援に行ったが、矢向電車区が1945年4月15日の空襲に遭い、その時に焼失してしまった。


●旅客車(2) 鋼製車    
A.昭和初期製造車    
変遷表はこちらです。
・デハ101(〜106)→モハ101→モハ101→クハ6100(〜6101)
 青梅電気鉄道初の鋼製電車で、モハ101〜102が1926年日本車輌支店、モハ103〜106が1928年川崎造船所製である。スタイルにやや差が有り、日本車両製は、東武の初期鋼製車と同じく、裾に切り込みがあり、一部台枠が覗いている。一方、川崎製の方はこの裾の切れ込みがない。横長の一段窓が特徴であった。また、床下にはトラス棒が付いていた。
 買収後やはり代用Tc化されたが、まずモハ104が井の頭線へ、またモハ102が東武東上線に応援に行っている。その後、モハ105が1949年に五日市線用の客車に改造され、後にそのまま救援車に改造されてから廃車になった。
 また、モハ106は1945年に衝突事故を起こし休車になっていたが、1949年に正式に除籍され相模鉄道に渡った。相模鉄道では後述のモハ501・502と共に貨物牽引用電車(モワ3)として使用された。その後に電気機関車の登場により旅客車に復帰、鋼体化車や戦災省電で構成されたモハ2000型(当車はモハ2014)に編入された。1970年に除籍されている。
 モハ103も同じ1949年に除籍されたが、こちらは富士山麓鉄道に渡り、進駐軍専用室を持つロハ901として使用された。しかし昭和30年代に入ってからは使用される機会も減り、1965年に西武所沢工場経由で流山電鉄に譲渡されクハ53となり活躍した。81年に除籍されている。
 残り3両は飯田線または身延線に転属し、簡易荷物・郵便室を取り付けて活躍した。が、モハ101が身延線の島内随道列車火災により焼失している。
 結局1953年改番時の現役だったのはモハ102、モハ104の2両だけで、改番後はクハ6100、6101になった。揃って1956年に除籍後、小湊鉄道に譲渡され、気動車化の上で使用された。改造にあたっては、トラス棒を撤去し正面は2枚窓に変更した。その後、ヘッドライトを屋根前頭部の1灯から窓下のシールドビーム2灯化に変更した。1975〜77年に除籍された。

・デハ501(501〜504)→モハ501→モハ501
 上記のモハ101川崎造船製造車を18m級にした車両で、1929年汽車会社製である。こちらは幕板部についた主電動機通風機(同様のものは湘南デ1=京浜急行230にも存在)が特徴である。
 買収後やはり、まずモハ503が井の頭線へ、またモハ504が東武東上線に応援に行っている。一方で501・502は1945年に衝突事故を起こし休車になった。
 1947年に、モハ503は上毛電気鉄道に付随車状態で貸し出された。1950年に正式に譲渡され、制御車に改造、クハ501として活躍した。1978年に除籍後も大胡車庫で車体のみ倉庫として利用されていたが、1997年に解体された。
 一方、モハ501・502はモハ101型の項で述べたとおり、相模鉄道に譲渡され、モワ1、2として使用された後、モハ2011、2012となった。1970〜1971年に除籍されている。またモハ504も52年に相模鉄道に譲渡されたが、こちらは当初から旅客車クハ2506として使用された。1966年に除籍されている。
 なお、このグループは私鉄譲渡後、全車窓の2段化が行われていた。
上毛電気鉄道クハ501の廃車体(青梅モハ503 現解体)
1990-1-3 大胡

▼青梅電気鉄道 車輛解説 後篇へ
▲青梅電気鉄道 概要へ

▲買収国電のプロフィール 表紙へ

inserted by FC2 system