●三信鉄道→国鉄飯田線(三河川合〜天竜峡)
1943年8月1日買収

<路線概要>
 「三信」の「三」は三河、「信」は信濃の意であり、飯田線でもっとも地形の険しい区間にあたるのが当鉄道である。そのような状況ゆえ、飯田線の中で最も最後に着工され、開通した区間であるが、実際に乗車してみると「よくこんな所に鉄道を引いた」と思わずにはいられない。素彫りのトンネルも存在し、殆ど執念でこの区間を造ったようなに感じる。
 この区間の建設は天竜川の電力水利が発端となっている。三信設立者のひとつ、長野県の天竜川電力の水利権には長野側に軽便鉄道の敷設が条件付けられていた。一方豊橋側にもこの区間の鉄道敷設運動があり、これらを取りまとめた結果、天竜川電力、東邦電力、豊川鉄道、伊那電気鉄道等の出資により当社が設立された。

 当線は三河川合、天竜峡と路線の両端から建設された。
先ず、北端の天竜峡から北線が門島まで、矢作水力門島発電所の建設のため1932年に開業した。
その後は南側の建設が優先されたため、温田へは1935年、満島(平岡)、小和田には1936年に開通した。
一方、南端の三河川合からは1933年に三河三輪(東栄)まで開通、1934年に佐久間(中武天竜)、1936年に天竜山室、大嵐まで開通した。
 そして、1937年8月大嵐〜小和田が開通して全通した。この間橋梁97、随道171を数え難工事であったことが伺える。実際「三信地下鉄道」とまで言われたほどである。
 しかし、これが原因で工費が高くつき、高運賃になったため沿線から国有化要求が起きていた。また、度々土砂崩れなど自然災害に遭い、買収後、列車を巻き込んだ大事故も発生している。

 買収後、平岡ダムの建設で平岡付近が新線になったのを始め、大嵐〜佐久間が佐久間ダム建設のため水窪経由に大きく迂回させられている。この他にも、活断層を横切る当線は地殻変動のため、トンネルを数カ所で付け替えている。

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