●豊川鉄道 →国鉄飯田線(豊橋〜大海/豊川〜西豊川)
●鳳来寺鉄道→国鉄飯田線(大海〜三河川合)

1943年8月1日買収

および
田口鉄道→豊橋鉄道田口線

<車輛解説 前編>
 概論で説明したとおり、この3社は同型車を保有し共通運用を行っていた。
電化当初は木造車を日本車輛で製造、つづいて川造型鋼製車輌を増備している。しかし、番号体系は 豊川・鳳来寺と田口でバラバラであったが、これは1937年に統一されている。
 戦後、豊川・鳳来寺の車輛は主として山陽地区に転出し、飯田線豊川機関区には当初モハ30・50が、後にはモハ14(旧モハ32)が転属してきた。その後は20m級旧型国電が大量に入線し、旧型国電の牙城になったことは周知のとおりである。

●旅客車(1) 木造車    変遷表はこちらです。
・豊川/鳳来寺モハ10(10〜15)→モハ10
 電化開業に備えて1925年に日本車輛で製造された15m級3扉車の木造電車で、モハ10が鳳来寺鉄道の所属(旧モハ1)だった以外は豊川鉄道の所属である。
 戦後モハ11・12は部品不足で早期に除籍されたが、残り4両は私鉄に譲渡された。
このうちモハ10・13は電化後も電気機関車による客車列車が続けられていた大井川鉄道に譲渡され、同社初の電車モハ201・202になった。簡易鋼体化の上で使用が続けられたが、他形式との総括制御ができなかったこと、および老朽を理由に1967年に除籍された。
 一方、モハ14・15はモハ36・37を国鉄に経営委託と同時に供出したため、その代替として早くに田口鉄道に入線していた。そして、1951年に正式に同社のものになりで廃線まで使用された。廃線後モハ15は解体されたが、モハ14は田峯駅跡に保存された。その後、1977年には改装なった設楽町立奥三河郷土館に移転し、現在そこで車内に関係品を展示しながら保存されている。

田口鉄道モハ14(豊川鉄道モハ14 保存) 1995年8月21日 愛知県設楽町立奥三河郷土館

・豊川ホハ1・2、ホロハ1・2→サハ1〜4→サハ1
 電化以前に製造された木造ボギー客車を電車用の付随車に改装したもので、22年日本車輛製。もとの形式が3等車と2・3等合造車であったため、形態は2つに分かれるが、デッキを廃止し、中央よりに新たに引き戸を設けた点は共通している。40年にはラッシュ専用車として車内の座席を大幅に減少させる工事を工事を行った。
 老朽化により1951年にサハ1・2は除籍、大井川鉄道への譲渡予定だったが中止され1953年には解体された。サハ3・4は伊那松島に転属し伊那電や身延の付随車と共用されたが、結局、救援客車になった後に除籍された。

●旅客車(2) 鋼製車    変遷表はこちらです。
A.大阪鐵工所・川崎造船グループ
・鳳来寺モハ2             →モハ20    →モハ20→モハ1700
・豊川モハ20(21〜24)                 →モハ20→モハ1600(〜1601)
・豊川附22(サハ22〜23)        →クハ60(61〜62)→クハ60→クハ5600(〜5601)
・豊川サハユニ201(〜202)→モハユニ201→モハ80(81〜82)→モハ80→モハ1620(〜1621)

 1927年に増備された川崎造船および大阪鐵工所製の電車である。うちサハ22・23、サハユニ201・202が付随車であったが、前車は1937年に両運転台の制御車クハ61・ 62に改造された。後車も1930年に両運転台の電動合造車モハユニ201・202に改造された。が、三信鉄道との直通開始で同社の荷物電車の乗り入れも行われた為、この荷物室は不要になり、1937年にモハ81・82に改造されている。
 戦後は全車宇部線・福塩線に転属し、その後一部は富山港線に転属している。またモハ20は台車をDT20に変更している。その後、1955年〜1957年に除籍(モハ1700のみ1964年)され、モハ1600以外は私鉄に譲渡された。
 うち、三岐鉄道にはモハ1620・1621・クハ5600を譲り受け、電化後もガソリンカーによる運行であった旅客列車を電車化した。入線に際し東洋工機で更新され、正面貫通路付きになっている。いずれも1975年前後に除籍された。
 流山電鉄にはクハ5601が入線しクハ51になった。この車輛は国鉄時代の改造でグローブベンチレーターに改造されていた。1976年に除籍されている。
 上信電鉄にはモハ1601が入線しクハニ21になった。1937年には西武所沢工場で車体延長工事を受けることになったが、車体は流用されなかった。この余った車体は、近江鉄道にクハ1207の鋼体化名義で入線した。この時前面を2枚窓に改造している。81年に除籍された。
 豊川工場の入れ替え車として使用され1964年まで国鉄に残ったモハ1700は、伊豆箱根鉄道大雄山線に入線しモハ35になった。両運転台のため工事列車にも使用されたようだが、昇圧前後に除籍されている。
・類似車輛例参照


B.日本車輛製グループ
・豊川モハ31(31〜33)→モハ33→モハ1610(〜1612)
・田口モハ101〜102→モハ36・37
 田口鉄道開業および豊川鉄道の増備車として1929年に日本車輛で製造された車輛である。上項の車輛の形態を引き継いでいるものの、こちらは日車製のためか角に丸みが大きくとられている。
 田口車の改番以外は特に大きな変更もなく買収された。このとき豊川所属の車輛が国鉄所属になったのは当然だが、田口鉄道所属車輛も経営委託の関係で国鉄に供出されている。よってこの2両は準買収車と言えるだろう。なお、田口鉄道が自主経営になる1952年に同社に返還された。

 豊川車は3両揃って宇部線→福塩線に転属し、モハ1610〜1612になった後、1956年に除籍された。
このうちモハ1612は、三岐鉄道に旅客列車の電車化の為に東洋工機で更新の上で譲渡され、モハ110として活躍していた。
 大井川鉄道にはモハ1611が譲渡されモハ303になった。当初は両運転台であったが、1959年にクハ503(もと国鉄クハ5803←三信デハ304)の入線により、片運転台され同車と固定編成で使用された。
 そして、モハ1610は故郷の豊橋鉄道田口線に帰りモハ36・37のあとを追いモハ38になった。この3両は豊橋直通運転用で国鉄車と併結運行する必要があるため、機器を国鉄型に変更していた。直通は1963年に廃止され、この車両たちも廃線前後に渥美線に転属、車番もモ1711〜1713になって運行されていた。その後窓の2段化などの近代化が行われ、モ1713はク2311(もと西武多摩湖線小型車)と固定編成を組む為片運転台化された。全車1980年代後半に1900型の増備で除籍されたが、一番最後まで残ったモ1711は1988年の引退時に田口時代のチョコレート色に塗り変え、表記もモハ36に戻して記念走行を行った。引退後も暫らくの間、高師駅構内に留置されていた。

豊橋鉄道モ1711(田口モハ36) 1990年8月4日 高師

C.木南車輛製グループ
・クハ100(101〜102)→クハ100→クハ5610(〜5611)
 1940年に製造された17m級両運転台の制御車で、阪和モヨ100を除くと、買収国電で唯一の転換クロスシート装備車であった。2扉・一段下降窓で名鉄3600系に近いスタイルだが、屋根は張り上げの近代的スタイルである。
 戦後の改造でロングシート化、グローブベンチレーター化、さらにクハ5610は雨樋の通常位置への変更と前照灯の独立、クハ5611は前面の非貫通化が行われ、独特のスタイルは損なわれてしまった。
 この形式も戦後山陽地区に転出し、福塩線で1962年に除籍。これを高松琴平電鉄が購入し、810、820として琴平線に配置した。1964年には820を方向転換の上で電装し、この2両で固定編成化した。この頃、もとクハ5610の810の雨樋が撤去され昔のスタイルに近くなった。
 その後、820が51年に、810が56年にノーシル・ノーヘッダー化、窓の2段アルミサッシ化、内装のデコラ化など徹底的な更新工事を受け、製造時の面影は窓程度になっている。なお、更新時期の差により前照灯の形状に差がある。
晩年は琴平線で平日朝の限定運用についていたが、2003年3月に廃車になった。
左 高松琴平電気鉄道琴平線820(豊川クハ102) 2002年12月16日 三条〜太田
  高松琴平電気鉄道琴平線810(豊川クハ101) 1995年8月12日 仏生山

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