●鶴見臨港鉄道→国鉄鶴見線
1943年6月1日買収

<路線概要>
 京浜工業地帯の中枢部を走る鶴見線は、セメント王、浅野総一郎の埋め立て計画に端を発する。彼は、川崎・鶴見地区の海岸を埋め立て、ここを工業地帯に使用することを目論み1908年、「東京湾埋立」を設立した。その構想は着実に実現してゆくが、この埋立地の輸送機関として設立されたのが鶴見臨港鉄道で東京湾埋立の子会社だった。

 同社は、1926年3月に浜川崎(操車場)〜弁天橋と武蔵白石〜大川(大川支線)で貨物専業鉄道として開業した。
同年4月には安善〜石油(浜安善)、1928年には浜川崎〜扇町も開業している。
 一方、旅客営業は、京浜電気鉄道系の海岸電軌(総持寺〜潮田〜池上〜川崎大師、1925年開業、1372mm)が並走していたので、行っていなかった。
 しかし、海岸電軌の営業成績が不振だったため、京浜側が処分したかったことと、
および鶴見臨港鉄道が旅客営業する際には同軌道の合併が必要という前提で免許を受けていた為
1930年に鶴見臨港鉄道は海岸電軌を合併し、軌道線とした。

 そして、1930年10月28日に鶴見(仮)〜弁天橋を延長の上、鶴見〜扇町で電車(DC600V)による旅客営業を開始した。
鶴見はなかなか本駅にたどり着けず、全通は1934年のことである。
また、1931年に大川支線の旅客営業を開始、1932年には浅野〜新芝浦間の芝浦製作所の専用線を買収し、同線の旅客営業も開始している。
(その後1935年弁天橋〜鶴見川口(貨物線)、1940年新芝浦〜海芝浦間開業)。
 なお南武鉄道との連携を目的とした鶴見〜矢向の延長は未成に終った。

 一方、相変わらず経営不振であった軌道線は産業道路建設を機に廃止された。そして戦時で輸送量が伸びる中、これ以上の輸送力増強は国の力が必要と判断され、1943、7、1に国に買収された。しかし、買収後も鶴見臨港鉄道は存続し、東京湾埋立の後身である、東亜建設工業(同社公式サイト)の子会社として社員1名で現存する。主な業務は矢向延長線予定地に建設した建物の管理などである。
有名なところでは鶴見駅西口の駅ビル「ミナ−ル」が鶴見臨港鉄道の所有であり、その6階に同社の本社がある。

 当線は、朝夕と昼の旅客輸送量の格差が大きかったが、戦後住宅地が増えてくるとその差も縮まっていった。しかし、公害問題や老朽化による工場の移転や自転車・バイクの普及にともない、今では休日日中は1時間ヘッドになってしまった。

 なお、当地を走る京急系の川崎鶴見臨港バスは、鶴見臨港鉄道のバス部門が独立した鶴見川崎臨港バスと、鶴見臨港・京浜電鉄系列の川崎乗合自動車が1938年に合併して成立したもので、戦後京急系列になった。

鶴見駅「ミナ-ル」にある鶴見臨港鉄道本社 97年6月29日 川崎鶴見臨港バスの歴史は当社と関係が深い
 98年10月17日 鶴見駅西口

▼鶴見臨港鉄道 車輛解説 前篇へ
▼鶴見臨港鉄道 車輛解説 後篇へ

▲買収国電のプロフィール 表紙へ
inserted by FC2 system