●鶴見臨港鉄道→国鉄鶴見線
1943年6月1日買収

<車輛解説 前篇>
 旅客営業開始時は、10輌の新造電車をそろえたが、その後は木造省電を購入し、車両を増備した。
昭和10年代になると関東窓配置の車両、さらには、日本初の4扉車を増備したが、後期に製造されたものは、電機部品がないために使用不可能な状態であった。

 買収後は木造省電を投入し、そうした新造車を附随車として使用することで、工員輸送で逼迫していた体制に対応した。そして、1945年の京浜地区空襲では、工業地帯ということもあり徹底的な爆撃が行われた。弁天橋電車区に留置中の車輛にも犠牲車が出ているが、その数は空襲の規模に比すれば少ないといえるかもしれない。
 戦争が終わるとオリジナル車は次々と山陽地方へ転出し、1948年5月1日の昇圧で消滅した。なお当線は旅客の集中率が非常に高いこともあり、買収後は各線の中古車しか走っていない。


●旅客車(1) 15m級自社発注車    変遷表はこちらです。
・モハ100(101〜110)→モハ110(111〜120)→モハ110→モハ1500(〜1505)、クハ5540
 旅客営業開始に備えて1930年に製造された15m級3扉車である。 モハ101〜108が新潟鐵工所、109・110が浅野造船所製で、雨樋やウィンドヘッダーの形状などに差が見られる。
1940年の改番でモハ111〜120になった。
 買収後、京浜地区の空襲でモハ120が犠牲になった。しかし、この車輌は近くに落ちた爆弾の爆風で、窓ガラス等の部品が破損する程度だったらしく、日本鉄道自動車の手により再生され、北恵那鉄道にデハ8として入線した。ポール集電(後Zパンタを使用)で、晩年はパンタ側に貫通路が設けられていた。戦後になり、モハ111が上毛電鉄に譲渡された。この時は、代用附随車であったが、上毛では片運転台の制御車のクハ701として竣工、右側運転台が特徴だった。またモハ115が日本鉄道自動車の手で整備され、銚子電鉄に入線しモハ301となった。この車輌も直接制御・ポール集電である。その後集電装置がビューゲル→パンタと変わったことと、塗装を除けば、車体は原形に近い状態で現存している。

 その後も国鉄に残った車両は山陽方面に転出した。ここで、部品等の都合で片運転台化されたものが多い。1953年の改番では、制御車化されていたモハ112クハ5540に、残りがモハ1500〜1505になった。モハ1501、モハ1504を除き片運転台である。このうち、モハ1502のみ連結面に貫通路を取りつけていた。
 1954年〜1958年にかけて、救援車のクエ9140(9401)に改造されたモハ1502を除き、除籍された。手頃な大きさであることから、各地の地方私鉄に譲渡された。

 このうち、クハ5540は東洋工機で電装・両運転台化・ステップ取り付けの上、山形交通に譲渡され三山線のモハ107になった。暫らくは原型をとどめていたが、1963年に同社モハ106(後の蒲原鉄道モハ91、1985年除籍)に準じた更新工事が西武所沢工場で実施され、側窓は上段Hゴム支持、正面は後退角のついた2枚窓になった。廃線により解体されている。
 上田丸子電鉄ではモハ1501・1504の譲渡を受けモハ4255・4256として真田・傍陽線で活躍した。1972年の廃線後、モハ4256が弘南鉄道に譲渡され、大鰐線のクハ105になったが、1980年に除籍されている。
 そして静岡鉄道には、モハ1500・1503・1505が入線しモハ(クモハ)18〜20になった。いずれも、両運転台に改造の上で入線している。うち、前ニ車は晩年は1960年代初頭に、貫通2両固定篇成化されていたが、1968年にクモハ350に機器を譲って廃車になった。残るクモハ20は長沼工場の入れ換え車として使用されて(1982年除籍・機械扱に変更)いたが、1998年に東急から購入したモーターカーにこの任を譲り、現在は使用されていない。当初解体予定であったが、現在は塗りなおされ、工場の公開時に展示されている。
左 銚子電鉄モハ301 (鶴臨モハ105) 1994年8月8日 仲ノ町
右 静岡鉄道クモハ20(鶴臨モハ109 車籍無) 1998年8月1日 長沼

●旅客車(2) 省線木造電車    変遷表はこちらです。
A.芝浦製作所引継車
・モハ200(201〜202)→モハ140(141〜142)→モハ140
 芝浦製作所の専用線電車を引き継いだ車輛であるが、もとは新橋工場で製造された院電ナデ6130・6141である。廃車後、目黒蒲田電鉄モハ35・41を経て芝浦製作所に渡り、35・41として使用されていた。1948年の除籍後は日立電鉄に渡り、モハ141はクハ141、モハ142はモハ101になった。クハ141は1960年代に除籍され久慈浜で倉庫になっていたが、モハ101は1972年に除籍後、国鉄の返還され大井工場に製造時の姿に復元の上保存されていた。その後、1987年に大修理が行われたとき、自走可能に復元されている。

>ナデ6123(鶴臨モハ142 復元保存車)
1996年8月 大井工場

B.モハ1系払下車
・モハ300(301・302)/モハ400(401〜407)→モハ310(311〜319)→モハ310
・サハ360(361)→サハ361
 モハ300・400→モハ310は木造省電のデハ33500→モハ1を1934〜1938年にかけて譲り受けたもので、車輛により原型のまま片運転台(竣工図上は301・302・407)のものと両運転台に改造されたものが存在した。また、モハ401・402は南武鉄道経由で入線している。
 モハ311・317が戦災で焼失したほかは、45年〜46年にかけて可部線・富山港線に転属した。このうちモハ313は1949年に飯田線に転属したが、1951年、走行中に火災を起こし焼失している(名義上はモハ70型に改造)。
その他は1951年頃除籍され、一部が私鉄に譲渡されている。
 モハ312は東急横浜製作所(後の東急車輛)に譲渡され、牽引車として使用されていた。後に東急7000を模したコルゲート付き高張力鋼を使用した車体に変更し、派手な塗装で活躍していたが、現在は除籍されている。
 モハ315は西武鉄道に譲渡されたが、木造で使用されることはなく台枠以下を流用して車体を新造し、モハ503(後のモハ413→クモハ353)になった。登場時は西武最初の新車として、また晩年は西武最後の吊掛車として活躍した。
 モハ316・318は西日本鉄道に譲渡され、宮地岳線でク59・60として活躍した。窓構造・窓配置を大幅に改造されて使用されていたが、1962年には九州車輛で宮地岳線標準車体に鋼体化している。いずれも大牟田線からの車輛転入で78年に除籍された。
 モハ319は同じ九州の熊本電気鉄道に譲渡されモハ202になった。しかし車体の老朽化が激しくなったので、国鉄クハ6001を購入し、それに電装品を譲って廃車になった。
 サハ361はもと国鉄サハ19016である。戦後は救援客車に改造された。

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