●鶴見臨港鉄道→国鉄鶴見線
1943年6月1日買収

<車輛解説 後篇>
●旅客車(3) 17m級車輛    
変遷表はこちらです。
・モハ500(501〜503)→モハ330(331〜333)→モハ330→モハ1520(〜1522)
・クハ600(601〜603)→クハ350(351〜353)→モハ330→クハ5530(〜5531)→クハ5500(5503)

・モハ130(131)   →モハ130→モハ1510
・サハ210(211〜213)→サハ210→クハ5500(〜5502)
・サハ250(251〜253)→サハ250→クハ5550(〜5552)→クハ5500(5504〜5506)
 いずれも川崎車輛で製造した関東窓配置(モハ=C3-d1D4D4D4D2、クハ=C3-d1D4D4D2)の17m級車である。モハ500(330)・クハ601(350)は1938年製、モハ131は1940年製である。モハ131がモハ500の追番にならなかったのは電動機の出力が異なるためである(モハ500=67Kw、モハ130=56Kw)。
 サハ210・サハ250は1942年製で、210は両運転台電動車、250は片運転台制御車になるはずだったが、資材不足で付随車として入線している。
 殆どの車輛が、昇圧後は山陽地方の買収線に転籍したが、唯一飯田線に転属したサハ211は、モハ30と組んで田口鉄道乗り入れようとして使われた。また付随車だったサハ210・250は1950年代に制御装置が取り付けられ、1953年改番時には全車制御車になっていた。なお、モハ1520、クハ5501はベンチレーターがグローブ式に変更されていた。
 これらの車輛は形式は違っても殆ど同形態であったため、制御車は1959年にクハ5500に形式統一されている。また、山陽地区で使用されていた制御車の一部は富山港線に転属した。
 モハ1510がそれぞれクエ9423に救援車に改造された以外は、地方私鉄に払い下げられることもなく国鉄で終焉している。※

・サハ220(221〜222)→サハ220→クハ5510(〜5511)
・サハ260(261〜262)→サハ260→クハ5520(〜5521)
 両車とも1942年新潟鐵工所製で、サハ220は両運転台電動車、260は片運転台制御車になるはずだったが、210・250と同じく資材不足で付随車として入線している。日本初の4扉車(窓配置:サハ220=C3-d1D2D2D2D1d、サハ260=C3-d1D2D2D2D2)で、ノーシル・ノーヘッダーの近代的車体とリコ式吊り手を供えていた。
 昇圧後は山陽地方の買収線に転籍(サハ261のみ富山港線経由)し、そこで制御車に改造された。その後クハ5510・5520と改番されたが、クハ5520が両車とも救援車に改造(クエ9130・9131→9420・9400、形式が分かれたのは、車内にクレーンを装備してるか否かで、窓配置も異なっていた)されたのに対し、クハ5510は1956年に除籍された。
クエ9400(←クエ9131←クハ5521)
高槻電車区 画像提供:ななまる様


●旅客車(4) 2軸車・軌道線転用車    変遷表はこちらです。
・モハ20(21〜22)(買収前に転出)
・モハ30(31〜32)→モハ30
 もとは軌道線用に新造された車輛で、モハ20が1932年、モハ30が1934年いずれも汽車会社製である。
軌道線廃止に伴い改軌・ステップ切断の上、鉄道線に転籍した。
 1939年までには使用停止になり、モハ21・22は福武電気鉄道(現在の福井鉄道福武線)に譲渡され、オーバーハング短縮等の改造を行い、デハ(モハ)31・32になった。1972年頃に除籍されている。
 モハ31・32は使用停止後も転売されなかったため、国鉄に買収されたが、結局殆ど使用されなかったらしい。戦後、正式に廃車になり、茨城交通に売却されモハ31・32になった。茨城線赤塚〜大学前の区間運転用として使用されたが、同区間の電化が廃止されたため、1966年に除籍された。

・モハ51(買収前に転出)
 1951年汽車会社製で支線用として製造された2軸電動車。近代的な外観をしていた。
1939年には使用停止になり、非電化だった三岐鉄道に譲渡されハフ1、2になった。この時ブリル台車ははずされ、板バネ式軸受けになっている。後にハフ11・12に改番、さらに北恵那鉄道に譲渡され、三岐時代の番号のまま電車に牽引されて使用されていた。


※『買収国電抄』 吉田明雄 鉄道ピクトリアル112号(1960年11月)によれば、クハ5500はクエ9425に改造されたことになっているが、詳細不明。

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