・英雄の話

旧日本総領事館を見学したあと、その前のバス通りの坂道を登っていった。
まもなく、イスタンブールで最大の広場、タクシム広場に到着する。
巨大なトルコ国旗が掲げられている。
ちょうどお昼時ということもあり、人通りは絶えず売店は忙しい。
 
タクシムとは分水器のこと。
かつては、ここで上水路の水を市内各所に分配していたということである。
そういえば、溝の口駅前には「円筒分水広場」ってものがあるけれど・・・・あれはニヶ領用水のサイフォン式分水器をイメージしたものだったかと。

そんなふうに広場を一周していると、やがてイスタンブル市で最も著名な繁華街、
イスティクラル通り(=独立通り)から、この聞き覚えのある軍楽隊の音楽(Youtubeへの外部リンク)と共に
こんな一団がやってきて、周りは騒然?となった。

「なんだ、観光の為のパレードか、さもなくば市民団体の何か」と思っていたが何かおかしい。
軍楽隊に続いてきたのは、仮想行列もとい仮装行列。
ついでにプラカードつき。

日本に戻ってから調べると、どうやら、イスタンブルの東に隣接するコジャエリ県イズミット市(1999年に発生したトルコ大地震で大きな被害が出た)にある、
遊園地か何かの関連だったらしい。

・・・だからカメラをむけたとき、彼女たちの表情がいいわけだ(苦笑)。

しかし、そのあと彼らは、この塔の前で
国歌「イスティクラル・マルシュ(独立行進曲)」(Youtubeへの外部リンク)を歌い始めた。

メジャーコードの国歌が多い中では珍しいマイナーコードの国歌。
ちなみに、どういうわけか、マイナースケールの国歌というのは、イスラエルの「希望」をはじめ、ブルガリア、アゼルバイジャンと、国家体制や宗教の如何を問わず黒海沿岸諸国や中近東に多い。
それは、これらの国の苦難の歴史を反映しているからかもしれない。
・・・余談だが、我が国の「君が代」は西洋音階にのっとってない国歌という、非常に珍しいもの。

この塔は、共和国記念碑といい、現在のトルコ共和国を作ったケマル・アタチュルクとその同志達が象られている。
アタチュルクとは、「トルコ民族の父」を意味しする。もともとファミリーネームと言う概念がなかったトルコ民族がケマルが推し進めた改革によりそれを付与することになった際、議会から贈られたものである。

まさに「国父」。
イスタンブル市内を歩けば、そこらじゅうに「アタチュルク」がある。

このローマ帝国時代の水道橋(ヴァレンス水道橋)の遺構を通るのはアタチュルク通り。
金角湾にかかる、この通りの橋の名前はアタチュルク大橋。
空港の名前は、アタチュルク空港。
駅にはアタチュルクのマスクがある。

偶像崇拝を禁止しているイスラム教圏で、これは個人崇拝ではないのかと、槍玉にあがったこともあるらしい。

なぜ、彼が国父といわれる存在なのかは、トルコ共和国成立の歴史を顧みる必要がある。
日本人が世界大戦と言って思い出すのは、第2次のほうだが、欧州では第1次のほうである。
戦前の地図と現在の欧州の地図を見比べてみれば、それはわかる。
この1次大戦で、現在の欧州諸国の大まかな領土が確定する第一歩なのだから。

オスマン帝国は既に弱体化していたが、この大戦で挽回を狙い、ドイツやオーストリア・ハンガリーの同盟国側につく。
しかし、結果は敗戦し、国土は連合国側に分割占拠されてしまう。
そのレジスタンスの先頭に立ったのが、1次大戦でも活躍をしたケマルだったわけである。
当時、1次大戦の結果、イスタンブルのある東トラキア地方やエーゲ海沿岸のイズミル市を得たギリシャは更にトルコを侵略しようとしてが、これを阻止し逆にイズミルを奪還、最終的にローザンヌ条約で現在の国土とトルコ共和国を世界的に承認させる。

その後は、脱イスラム国家・欧州化を加速させ、たとえばアラビア文字からローマ字への変換が行われ、最終的には一党独裁となる。
最も、このアタチュルクの改革は都市部中心で、農村部は農地改革を行う前に死去したこともあり中途半端なものになっている。

ということで、彼がいなければ、今頃、トルコ共和国は存在しなかったか、存在しても全く違うものとなっていたのは確実なのである。
独裁者でありながらも、その抑圧的なものよりも、国民的な英雄であるほうが強調されるのは当然なのかも・・・このあたりには、台湾で国民党・蒋介石にちなむ中正○○を目にしたときに感じた威圧的なものと180度正反対のものを感じた。

ちなみに、彼が亡くなったドルマバフチェ宮殿の部屋の時計は、亡くなった時間の9時5分を示し
そして、ベットはトルコ国旗で包まれていた※。

さて、ここに何度か出てきたギリシャとトルコというのは、犬猿の仲である。
いまでも、ギリシャ人はイスタンブルのことをコンスタンティノープルと呼び、願わくばハギアソフィアのミナレットを折りたいと思っている(らしい)。
キプロス島が南北に分かれているのも、この両国の関係を如実に表している(国家的に承認されているのは、ギリシャ系の南キプロスのほうで、国歌はギリシャ国歌と同じ。逆にトルコ系の北キプロスはトルコ共和国しか承認していない)。
なにせ、東ローマ帝国(ギリシャ)の範囲は現在のトルコ全域を含みコンスタンティノポリスこそが都である。
逆にオスマン帝国(トルコ)の範囲は現在のギリシャを全て呑み込む。ようするに互いが互いの領土は、もともとは自分のものと思っているのだからむべなるかな。
小さな辺境の土地を巡ってに睨みあっているところとは、ちょっと格が違うのである。

ちなみに、トルコとギリシャの間には、一日1往復の夜行列車が走っている。
この列車名が「友好列車」という。
はい、国家間で「友好」ということを強調し始めた場合、本当のところは・・・・というのは、世界のどこも変わらないようで。

※ ハレム側で見学ツアーでないと見られないので注意。その近くには「日本の間」というものもある。

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