第3輯.田舎道のインタアーバン 福島交通 飯坂東線(福島県)

  現在、鉄道は飯坂線のみを運行している福島交通ですが、1971年まで、福島駅から郊外の町を結ぶ郊外型路面電車が走っていました。区間は福島駅前〜長岡分岐点〜保原〜梁川、保原〜掛田、長岡分岐点〜伊達駅・湯野町間で路線延長の長いものでした。全線単線で、福島市街地を出ると未舗装の旧街道の肩に敷かれたレールの上を走っていました。
 さて、当線はもともとは雨宮敬次郎の大日本軌道の一路線で、独立後は信達軌道と称していました。このため当初は762mmゲージの蒸気軌道でしたが、社名を福島電気鉄道に改称の上、1926年に1067mmゲージに改軌の上で電化しました。このこともあり、使用する車両の車体幅は1670mm程度という特異なもので、戦後になり車両がボギー車になっても変わることはありませんでした。実際、廃線跡を歩いてみると、よくもこんな所を走っていた・・・と思うところが多くあります。

 さて、晩年は24両のボギー電車(1輌は荷電)が活躍していました。そのうち何両かは廃線後保存されましたので、ここで紹介したいと思います。


(1)那須ロイヤルセンターの1108と2022
 廃線跡から遠く離れた栃木県の那須高原に保存されているのがこの2両の電車。1108は数多い木造車鋼体化電車の中でも最終グループに属する車両(1958年、日本車輛東京支店で鋼体化)で、屋根に出っ張った方向幕が特徴で、他に2両の同型車がいました。なお、残念ながらパンタグラフが失われています。
 一方の2022は、同線の最後の新造車(1960年、日本車両製)で、飯坂線の連接車 モハ5001に合い通じる、なかなか整ったスタイルをしています。また、この車輛は車体幅が広く1920mmでした。なお、同型車の2023は福島市内に保存されていましたが、1994年に解体されました。
 
左 1108 /右 2022 車体色は青と白になってしまった。
1995-8-26 撮影

(2)福島市立瀬上小学校の1119
 こちらは福島市北部の、かつての沿線にある小学校に保存された1119です。
この車輛は、木造単車を車体延長の上で鋼体化した車両(1953年、日本車輛で鋼体化)で、他に3輌の同型車が在籍していました。
撮影当時は状態は悪く、一時期は撤去も検討されたようですが、とりあえずは応急手術の上、延命したようです。
 
撮影当時、車体色は現役時に一番近かった。
車体の広告枠には右のようなことが書かれていたが・・・・。
1995-4-4 撮影。

(3)保原町立公民館の1116
長岡と共に当線のジャンクションであり、また福島以外でもっとも大きな町であった保原の中心地に保存された1116です。 戦後の新造車(1953年 日本車輛製)で、他に3両の同型が在籍していました。
車体は塗り替えられたため、色調が狂ってしまい、番号も消されていますが、中は現役当時のままだそうです。

1995-4-4 撮影

(4)梁川町立粟野小学校の1102
 保原から北に分岐した側の終着駅であった梁川町の小学校に保存された1102です。保存場所はかつて軌道が付設されていた道路に面する場所でした。
この車輛は当線の主力であった木造鋼体化タイプ(1955年、日本車輛で鋼体化)で、他に7両の同型車が在籍していました。訪問当時、既に状態が極度に悪化しており、撮影の2ヶ月後に解体されてしまいました。

1995-4-4 撮影

(5)霊山こどもの村の1115
 一方、保原から南に分岐した先には掛田町がありましたが、そこから更に山に入り相馬方面の峠である霊山にある「こどもの村」に保存されたのが、この115です。保原の1116と同型で、製造年も一緒です。
1995年に地元・福島の機関車メーカーである協三工業の手によって改修が行われ、撮影時は非常にきれいな状態でした。
 車内も残っています。座席配置は車体幅の関係で、車体中央を点対称に片側面にロングシートがあるという一風変わった構成でした。
なお訪問の際は同所の開園時間と期日、またバスの本数に注意して下さい。
 
1995-8-26 撮影

▼ (6) 廃線跡の情景に進む。


▲ 面影紀行 目次へ inserted by FC2 system