第9輯.みちのくの田舎電車  羽後交通雄勝線(秋田県)

   秋田県南部にバス路線網を広げる羽後交通には、かつて奥羽本線の駅からその西の山麓へ伸びる、二つの鉄道路線がありました。
ひとつは横手から二井山へ伸びていた非電化の横荘線、そしてもうひとつが今回紹介する雄勝線です。
 当線は奥羽本線の湯沢から、西馬音内(にしもない)を経由し梺(ふもと)へ至る電化(600V)線でした。
開業は、1928年8月10日で当時の社名は雄勝鉄道。戦時中の1943年12月5日に、おりからの交通統合で羽後交通の一員になりました。
しかし、乗客の減少は当線でも例外ではなく、1967年12月1日にまず西馬音内〜梺が廃線、1961年7月には先に廃止になった横荘線(横手〜沼館)の車両を使って内燃化が実施されました。 そして、除雪設備の普及に伴い冬季のバス運行に問題がなくなったため、1973年3月31日限りで全線廃止になりました。

電化時代は小さなポール集電の電車が国鉄払い下げのマッチ箱客車や中型木造客車、そして貨車を引っ張って走ることで知られた路線で、趣のある写真も残されています。
その残影を求めて、たずねた保存車両について紹介します。


(1)梺のデハ3 (1994.8.11 撮影)
 開業時に備え、昭和2年に蒲田車輛で製造された木造単車です。 現役時代は楕円形の戸袋窓と、ストーブの付いた車輌として知られていました。
廃止後、終点の梺(ふもと)駅跡で、建物の中に大切に保管されています。

私が訪問した時、偶然通りかかった地元の方のご好意で、建物の中に入らせてもらいました。
車内の状態も大変に良好で、今にも走りだしそうな感じでした。

(左から順に)デハ3の外観、内装、車紋部分
 
梺駅跡は幼稚園として使われていたが、訪問時は既に閉園(移転?)されていた。
腕木信号があったが、現役時代との関係は不明。右端の建物にデハ3が格納されている。


(2)湯沢のデハ5 (1994.8.11 撮影)
 こちらは湯沢市役所の前に保存されていたデハ5です。
一見して解るとおり、都電150型(もと王子電気軌道)の車体を流用したものです。
王子電軌の鋼製ボギー車200型は、都電編入後メーカー別に150・160・170に分けられましたが
このうち150は終戦後に3000型へ機器を流用して廃車になり、余った車体が各地に引き取られました。

 撮影当時、すでに状態が悪く、レンズの一部破損、また車内は床が抜け落ちている状態でした。
この数年後にはついに屋根が落ち、冬を越せないと判断されて残念ながら解体されてしまいました。

反対側のライトレンズは既に失われ、車内は荒れ放題だった。


(3)明治村のマッチ箱 (1996.3.11 撮影)
 雄勝線には、ボギー車2両、2軸車4両の木造客車を保有していました。
ボギー車は廃線まで、2軸車は内燃化まで活躍しましたが、2軸車のうち3両は愛知県犬山市の明治村に引き取られ、蒸機列車(もと尾西鉄道の12号機)の保存運転用として使用されています。
 ハフ11は1908年天野工場製で、青梅鉄道メ4として誕生、1924年に高畠鉄道(山形県)に譲渡されハ2に、そして1936年に雄勝鉄道に譲渡されています。一見コンパートメント車を思わせますが、製造当初よりワンルームタイプでした。
 残るハフ13とハフ14は、いずれも1912年新宮鉄道工場製です。当然ながら、新宮鉄道(和歌山県)で使用された後、同鉄道が買収後の1942年に鉄道省から雄勝入りしています。残念ながら旧番号はわかっていません。




(左上) ハフ11
(右上) ハフ13
(左下) ハフ14

※ なお、この輯のタイトルは私が地方私鉄趣味に走るきっかけになった、
高井薫平「昭和30年代の地方私鉄をたずねて〜古典ロコ・軽便・田舎電車、そして・・・」(鉄道ファン 82年5月〜84年1月 連載)の
第4回(羽後交通雄勝線・山形交通三山線/高畠線・庄内交通湯野浜線)から借用したものです。


鉄道時代、珍駅名として有名だった「あぐりこ」バス停と附近の廃線跡
雄勝線の跡は残念ながら多くが、耕地整理等で消滅している。


●羽後交通雄勝線については、詳しく紹介されたサイトがあるので紹介します。
  踊る大雄勝線   (しをりんこ様 2002.5.1リンク)

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