第2日:償還 2005年9月4日(日)
〜台北市中心部、基隆→金山→淡水〜

◆再び成り行き任せの二人旅
2日目の朝である。朝日が眩し・・・・くない。なんと部屋には窓がない。
台湾じゃよくある話しだそうだが。
ベッドもダブルベッド。5000円以下のホテル=ラブホ兼用という話しに、妙に納得する。

本日は、台北から港町の基隆へ、そこから北部の海岸に沿ってバスに乗り金山を経て淡水へ、
その後、捷運淡水線で台北へ戻ってきた後は、ゆっくり台北の日本時代建築物を見て廻る予定である。

中山から捷運淡水線に一駅乗り台北駅へ。
昨日と同じ、台鉄ショップの前へ行く。既に、例の如く大荷物を抱えたH1氏が立っていた。
どこを見るか決めていなかったH1氏は、私の行動プランと共にすることと相成ったわけである。

しかしまたしても三十路独身男職無し寄り合い旅行ですか。
折角台湾を旅行するんだから、林志玲みたいな綺麗なお姉さんと一緒がいいんだけどねえ・・・

と思ったバチがあたったのか、この後思わぬ展開を受ける。

台北の駅の発車案内を見ると、8:08に基隆行きの普通電車がある。早速切符を買い、地下3階のホームに停まっている電車に乗り込んだ。初の台鉄が韓国製ロングシートというのはちょっと味気ないが、仕方が無い。
ところが、様子がおかしい。
台鉄の列車発着案内は、いわゆるベストテン方式を使っていて、そこには発車時刻と列車種別、行き先、列車の遅れが表示される。定時ならば「準點 」(點は時の意)、遅れていれば「晩○分」である。
ところが、それらの表示はなく、いつまでも動き出す気配がない。

電車で待っていても埒があきそうにない。H1氏が通りがかった車掌に英語で話しかけるが理解されず。
その時、隣に座っていたおばチャンは、英語が話せるということで、通訳してくれたのである。
台湾の人々は、日本人より英語が堪能な人が多いと聞いていたが、早速、そのありがたさを感じる。
その結果・・・台北から3っつ基隆寄りの汐止駅附近で、なんとトラックと衝突事故が発生したとのこと。

これではいつ復旧するか解らない。
結局、順番を逆にして、午前中に台北を廻った後、基隆→金山と廻ることにした。

◆あにはからんや
台北・・・清の時代より、台湾の主要都市として発達したこの街は、1905年からはじまった日本統治時代には更に大都市へと発展して行く。
その時に総督府をはじめ、数々の洋風近代建築をこの街に築いた。その多くが今でも大切に使われている。
今回は、それを一つずつ見て廻ろうというものである。

1階窓口で切符の払い戻しを受けた後、外に出た。
曇ってはいるが、やはりジメジメしている。これから街を一周するのはキツイかもしれない。

漢字だらけのビル
台北駅周辺は鉄道が地下されている。その跡には高速バスのターミナルもあるが、
全般に建て込んでいる台北の中では珍しく、そこだけぽっかりと空が広い。
そこから市街地を見ると、いかに騒々しい風景であることか・・・しかし派出な看板に対し、
建物は黒ずんでいるものが多い。夜が華やかに映るのは、こうした昼間のどことない暗さと無縁ではあるまい。




つぎはぎのビル

さて、先ず向かったのは台北駅の西側にある台鉄本局跡と中華郵政台北郵局(郵便局)である。
しかし、これがどちらとも期待ハズレだった。
台鉄本局は見事に放置状態で、正に廃屋といった状態。
そこと交差点を挟んで反対側にある台北郵局は、逆に現役バリバリだった。
しかし、外観は痛みが激しいようで、随分と白っぽい。
いずれも美しいとは程遠い状態だった。
台鉄本局跡 台北郵局
●放置状態の台鉄本局(左)と、現役で痛みの激しい台北郵局

ここからは、中華路に沿って西門方面へ歩く。
かつての城壁の跡である。清朝末期にはその壁を壊して中央に鉄道を通した。
しかし、街の中心を、幹線道路に挟まれた形で地平に幹線鉄道が走るのは、渋滞を引き起こすなどマイナスが大きかった。
そこで、1989年、台北駅を挟む松山〜樹林が地下化(のちに樹林〜板橋が追加)されたのである。

さすが台北の目抜き通りというだけあって、物凄い交通量である。
その先陣を切るのは、やはりスクーター。普通の車の停止線の前に2輪停止線があるためだ。
両側もビルばかり。これでは、鉄道の立体化が叫ばれたのも無理はない。
変わっているのはバスが手前から3車線目を走り、名古屋の基幹バスのような停留所になっているのである。
中華路●中華路

そうこうしているうちに、次の目的地、中山堂に着いた。
かつての台北公会堂で、コンクリの立派な建物である。
その表側に廻ると
中山堂

・・・さあ、今年は台北工事現場紀行か?!

◆哈日族に隠れた日治
中山堂を見る途中、中華路を挟んで反対側・・・つまり本当の西門町が気になった。
台北の原宿といわれるように、「哈日族」の若者が集まる街でもある。
当初の予定にはなかったが、ちょっと探索してみることにした。

中華路は幅が広いが、地下道はあまりなく、横断歩道が主流である。
ただし、対岸は遠く、モタモタしていると分離帯に取り残されそうになる。
その中華路の歩道にガラス張りの出口がある。一見地下鉄の駅と同じに見えたが、
これは台鉄の非常口。翌日、列車内から確認したところ、きちんとしたホームがあったので、
駅として開業できない何らかの理由がありそうに思えた。
非常口

肝心の西門町に入る。ところが、未だ朝の9時過ぎということもあって、店は殆ど開いていない。
夜更かしな分、朝は苦手ということだろうか。
台湾らしくない?、街路樹の街並の両側は、どうやらブティック関係の店が多そうである。
その中にはこんな店も。
ヘンなカンバン

我々が使っている英語の類も、きっとこんな感じなんだろうなあ・・・。

さて、こんな時に、胃腸発の下り超特急が出発してしまったのである。
百貨店もあるが、未だ開店前、
そんな時、目に飛び込んで北のは麦當労・・・つまりマクドナルドである。
思わず急行・・事無きを得た。
ちなみに台湾の麦當労は日本とあんまり変わった印象もなかった。ま、マクドだからね。。

気を取り直して、街を歩く。
ところで、台湾の街に歩道というのはあってないようなもの。
大概、ビルの1F部分が一段引っ込んでいて、その部分が歩道として使えるようになっている。
だからといって隣のビルと床の高さが揃っているわけではないので、一軒ごとに踏み台昇降運動を 行うような感じになる。
段差●台湾の市街地は、どこもかしこもこんな感じ。(台南市内にて)

で、本当の歩道も申しわけ程度にあったりするのだが、そこには電気のトランスが置いてあったりして 用を成していない。
ちなみに台北の空には電線がないが、だからといって共同溝があるわけでもない。なんと下水道の中を這っているそうである。
・・・・電力関係の皆様、お疲れ様です。

そんな街の中を歩いている時、ふと裏道に目をやったH1氏が、あるものを見つけた。
それは・・・
日本時代の家屋 日本時代の家屋

日本時代の民家である。
しかも動態で使われている。
流石に台北の街は(事実上の)首都ということもあり、移り様が激しいが、その中にこのようなものを発見したのは嬉しかった。

◆白の広場
本来の賑わいを感じることのできないまま、中華路にある捷運の西門駅に辿りついた。
ここからは、次の目的地である中正紀念堂に行く。

西門駅は赤坂見附駅の如く板南線と小南門線が方向別ホームになっている。
私達が乗るのは小南門線。現在は、中間駅一駅の短い路線であるが、将来は中山を通って松山まで延長され、新店線と乗り入れる予定である。
ちなみに、ラインカラーは黄緑だが、捷運の電車は基本的にどの路線も同じスタイルをしており、
車体の色が違うということもない。

ものの4分で、中正紀念堂駅へつく。こちらも新店線とは方向別ホームになっている。
どの駅も片方のホームはロープが張られており、単線シャトル運転を行っている様だ。

さて、中正紀念堂は1975年に亡くなった蒋介石総統を記念して作られたものである。中正とは蒋介石の号のこと。
ちなみに「中山」は国父である孫文の号である。
故に、どこの街にいっても中正路と中山路は必ずあるわけだ。

そのような施設の最寄ということで、駅も大理石張りと気合の入ったものになっている。
それなのに、蛍光灯がひん曲がってついていたりするのが、どうにも台湾らしい。

そういえば日本人は、台湾も韓国も「いいかげん」と形容する傾向にあると思う。
しかし、その方向性は全く逆。台湾は、見た目に手を抜く。韓国は中身に手を抜く。
じゃー日本人は・・・プロセスに手を抜いているんじゃないかな?
中正紀念堂駅●中正紀念堂駅(淡水方面ホーム)

改札を抜けるると、紀念堂に向けて、大理石張りの通路は続く。
そして地上に出ると、デデーンと大きな門とそれに負けないほど大きな講堂がある。
いきなり「スモールライト」を浴びたような感じだ。

訳の解らぬまま、門の中に入り、それが正門ではないことに漸く気がついた。
そして、視界が開けて右を向くと、見渡す限りの広場の向こうに紀念堂が立っているではないか。
あまりのスケールのデカさに、唖然とするばかりであった。
中正紀念堂 中正紀念堂
●中正紀念堂 右は紀念堂から見た広場

共産主義国発のニュースで見る景色がフラッシュバックする。
独裁者というものに、政治体制の差はあまり関係ないのかもしれない。

建物は基本的に白と青が使われている。そういえば台鉄の旧型車輌はみな、青に白い帯だった。
つまり、この2色こそが中華民国の色なのであろう。

広場を抜け、紀念堂に辿りつくと、そこからピラミッドの如く階段が。
没時の年齢に合わせ89段あるというが、数えているうちに解らなくなってしまった。

登りきると、まるで観音堂の如く、これまた巨大な蒋介石像が鎮座している。
それを3人の衛兵が守っている。板門店でみた兵士と同じく微動だにしない。
さて、時刻は10:50・・ということは、間もなくアレが見られるというわけである。
それが↓
衛兵の交換

衛兵の交換式である。
バトントワリングのように銃を回すのも凄いが、それが4人一糸乱れず行うのもまた素晴らしい。
ただし、内容は観光向けに過剰演出しているようにも感じる。

一通り見終わったあとは1階の展示を見て廻る。
写真展示を見ている途中、あまりに人相が変わってしまったので、この人も随分老けたんだなあ・・と思っていたが、
なんのことはない。途中から息子の蒋介国に変わっていただけである。
しかし、親父に比べ蒋介国のなんと庶民的な体格であること・・

そして、執務室を再現した中にある蒋介石蝋人形?を見る。
いやはや・・・なんでもあり、である。が、この国の経済発展を見るにつけ、カンフル剤として開発独裁というのはアジアではありなのかもしれない。(堕落する独裁というのも、同じくらいに存在するが)。

なお、都心にこんな広いものが立てられたのか不思議で仕方がなかったが、
戦前の台北の地図を見ると同じ位置に、軍関係の施設があった。
そのような理由で、これだけの土地を確保できたのだろう。

◆綺麗にしますか?それとも、壊しますか?
あと60分で13:00である。そろそろ基隆に向かいたい。

ゆっくりと台北駅へ向かって歩き出す。

この途中で今回最も見たかった建物の一つである総統府(現:総督府)、そして司法院(旧:台湾総督府高等法院)を見る。
1919年建築の総督府は終戦直前に爆撃に遭いながらも、戦後も大切に使われてきた。
そして、戦後60年目に外観が補修され、大変綺麗になった。
戦後50年で元総督府を壊したことがデモンストレーションとなる韓国と比較すると、
あまりの考え方の差に唖然とするものがある。
総督府●総統府(旧:総督府)

残念なのは平日の午前中であれば内部の見学ができるのだが、今日は日曜日であること。

一方、道を挟んで南側にある司法院はわざわざ見に来る人も少ない。
しかし緑灰色の外観は、総督府とは対照的な渋さを見せており、よりこの地に根付いていることを感じた。
司法院●司法院


◆基隆へ、そして金山へ
台北の駅に戻ってくると、列車は、ほぼ正常運転に戻っていた。
すると12:58に基隆行き呂光号(呂は草冠付、急行列車)があるというではないか。
あと5分。こんな時に限って「準點」である。

地下のホームへ行く前に、昼飯の調達である。
台湾は日本時代の食文化がいろいろ根付いているが、その一つが、この弁当である。
駅弁も各地で売られている。
しかし、日本と違う点もある。それは・・・弁当が温かい事。
冷や飯ばかりを食わされる(笑)、日本とは大きな違いで、大変に嬉しい。

発車間際の基隆行きに乗る。本来は全指定席だが、自動券売機での購入のため、自動的に「立席(自願無座)」となる。
ただ、列車は空いており、難なく座る事ができた。

車窓は真っ暗な地下であるが、早速駅弁を食べる。
ごはんの上に排骨肉と燻製玉子が載った者で、この国では最も標準的らしい。
少々八角の臭いがキツイが、玉子が非常に美味しい。

松山で地上に出る。
しかし、どの駅もこの駅もホーム改造工事中で、なんだかパッとしない。
最終日にこの辺りで列車の駅撮を考えていたが、これではムリだ。

列車はたいして速度も上げず、高速道路と絡み合いながら基隆河の谷間を進む。
東部幹線を分岐する八賭を過ぎれば、間もなく短いトンネルを抜ける。
こんな海に近いところに分水嶺があるのだ。
なだらかな勾配を降りて行けば、終点の基隆である。
基隆

基隆・・・英語表記がKEELUNGなのでキールンと呼ばれるが、発音はヂーロンの方が近い。
山に囲まれた台湾北部の港町で、日本からも那覇発石垣島経由の旅客船が入港する。
駅そのものは微妙な古さだが、駅前には戦前からのビルが建ち、その向こうには直に倉庫そして港がある。
駅前ロータリーはクルマが途切れることはない。
賑やかだった時代の門司港もこんな感じだったのだろうか?
基隆駅前 基隆港
●基隆駅前で見た古いビルと港。

さて、この街もゆっくりと歩いてみたいところだが、本当の目的地は未だ未だ先なので、
足早に通りすぎることにする。
ここからは北海岸に沿って金山へ向かう。鉄道はないのでバスのお世話となる。

ところが、その乗り場がわからない。駅前にあるのは基隆市営バスと台北方面の長距離線。
キョトンとしていると、「金山」と行き先表示を出した基隆客運のバスがロータリーに突入してきた。
どこへ行くの?と思っていると、ロータリーを超えて、歩道橋の彼方へ行くではないか。
結局、そのバスは諦め、次のバスで行くことにした。

バスの本数は意外に多く、10分程度で次の便がやってきた。
車輌は台湾の標準型。輸入シャーシに現地でボディーを載せたもので、最後部はデデーンとクーラーが乗っている。
ちなみにステップは3段で、バリアフリーとは程遠い。

全部の席が埋まる程度の客を乗せてバスは走り出した。
先ずは山越え。煤けたコンクリと派手な看板に埋め尽された坂道をひたすら登って行く。
そして、振り向けば港が・・・。長崎にでもいるようだ。

海に近いものの、山がちな中をひたすら走る。
バスは車高が高い分、独特な揺れがある。乗り物酔いには注意・・といったところだろう。
やがて万里、野柳と経て、約1時間で金山(金山郷公所)についた。
基隆客運
●基隆客運のバス(金山にて)

◆歌姫に逢いに行く
なぜ、こんな辺鄙な場所へ来たのか?
カンのいい人は、ピンと来たと思う。

今から10年前の1995年、タイのチェンマイで一人の女性がなくなった。
それはケ麗君・・・・そう、「テレサ・テン」のことである。
台湾・香港を中心に広く中華圏で人気のあった、アジアの歌姫。
日本では歌謡曲シンガーだったが、1980年代中盤に荒木とよひさ(作詞)・三木たかし(作曲)による
「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」が大ヒット。
上記3曲で、1984〜1986年の3年連続で有線大賞に輝いた。
私は、小学生中高学年にベストテンを見て育った世代だから、やたらこのあたりは覚えている。

その彼女は今、この金山に近い金寶山に眠っている。
今回、台湾に行くと決めた時、急にテレサテンのことを思い出した。
日本で有名人の墓やゆかりの地を訪れることなど滅多にしない自分だが、
何故か、今回は例外的に行ってみたいと強く思った。

そういえば、韓国に一緒に行った後輩は
「時の流れに身をまかせ」ている以上、テレサテンの墓に行かねばならない、と言って
この場所へやって来た実績がある。
今回、私達2人も「時の流れに身をまかせている」状態であるから丁度いい。

さて、この先はタクシーに乗らねばならない。
丁度バス停の前に何台か停まっている。ところが、料金は事前交渉制なのである。
早速その一台の運転手に
「ケ麗君墓、金山汽車站去回。 多少銭?」と書いた紙を見せた。
テレサの墓へ行き、金山のバス停に戻ってくる・・幾等?という意味。
こういう時、漢字が使える日本人と、旧字体の台湾は相性がいい。

しかし、何故かうまく通じず、しまいには相場(とされる)値段の1.5倍を提示されてしまった。
ところが、「まけてよ〜」という言葉を忘れていたため、結局、それで飲んでしまった。
ああ交渉ベタな日本人の典型・・・・。
なぜかフラフラ歩いていたH1氏を怒鳴り、タクシーの中に無理矢理乗せる。

暫らく幹線道路を走ったが、やがてわき道へ入り、狭い道をひたすら登り始めた。
すわタクシー強盗か!と一瞬思ったものの、やがて立派な門が見えてきた
その先は巨大な墓苑。入口に警備員が立っていることから、特別なところだとわかる。
立ち並ぶ墓も土葬用(現在、台北では土葬は特別許可が必要)で大変立派なつくりである。
金宝山

その片隅の解り易い場所に、テレサテンの墓はあった。
「均園 (均は本当は竹かんむりが付く)」と呼ばれる。

鍵盤のモニュメントがあり、庭石に扮したスピーカーから、
ひたすら彼女の歌(のない歌謡曲)が流れつづける。随分五月蝿いところではある。
ここからは、晴れていれば、北海岸が一望できるハズだが、残念ながら今日は曇天である。

その奥に、彼女は眠っていた。
他の墓が白地に赤や青を配した中華な色使いなのに対し、
ここだけは黒い御影石でシックなのが対照的だった。
テレサテンの墓 テレサテンの墓

年齢バラバラの訪問客が数組いたが、
その光景を見るにつけ、墓の碑文に書かれていた「国民的芸人」という言葉を思った。
このような中華圏を又にかけた歌姫は空前絶後の存在であろうことを・・・。

ところで、後に現地で買った道路地図を見て見ると、わざわざ
金寶山の下に(均園)と書いてあった。
とてつもない人であることを改めて感じた。

タクシーに戻ると、運ちゃんが、写真を撮ってあげるという。
男二人で「均園」の標識の前に並んだが、出来は・・・・・であった。
帰りは、淡水(台北捷運の終点)まで行かないか?と運チャンが行ったものの、きっぱりと断り、金山へと戻ってきた。

◆こんな小さな街でも
金山は小さな街である。10分もかららずに市街地の端から端まで歩けてしまう。
それでも、シャッター通りということはなく、どの店も営業中で人が集まっている。
しかし、それはほんの序章に過ぎなかった。
金山の街
●金山の表通り

街の中心あたりに1本の路地があった。そちらを向くと物凄い雑踏である。
広安宮という寺の門前にあたるのだが、両脇には屋台が並び、人が激しく出入りしている。
死んだような日本の田舎町しか最近見ていない私には、充分にカルチャーショックである。
金山の街●本当に混雑しているところは、トンデモじゃないが撮影できませんでした。

さて、帰りは、先ほど運チャンに誘われた淡水へ向かう。
バス停には、時間が書いていないので、脇にあるスーパーマーケットに入ったりして時間を潰した。
そういえば、台湾ではあまりスーパーを見ない。
ここ金山の店は、日本でも田舎街にありそうな小さなもので、品揃えも似たり寄ったりである。勿論、野菜の類などは違うが。

やがてバスがやってきた。淡水客運であるが、色は基隆客運と同じである。
台湾のバスは基本的に自己申告先払制なので、運転士に「往 淡水」と書いた紙を見せるた。
すると、手のひらに「90」と書いた。つまり運賃は90元ということだ。
支払うと厚紙の札を渡される。どうやら、これが切符替りで、下車時に再度渡すらしい。

淡水へはひたすら海岸に沿って進んで行く。
車内の客はまばら、窓の外も、曇り空とあってどことなく寂しい感じである。何か南国という感じはしない。
時々現れるビンロウスタンドだけが妖しく光る。

やっと街らしい街が現れた石門のあたりから、海岸線は賑やかになっていった。
台北から近い海水浴場としてレジャースポットになっているようだ。
白沙湾のあたりは特に賑やか、そのバス停から海水浴帰りの若者で、車内は一気に埋め尽くされてしまった。
打って変わって、やたら賑やかな車内となる。

約1時間乗ったが、未だ淡水にはつかない。
やがて車窓には高層マンションが時々、一本立ちの木のように現れる。
しかし、ロードサイド型の店舗は見当たらず、この国に未だ郊外化していないことが解る。
そして、漸く淡水の市街地に入ると今度は渋滞。
なんとか突き抜けて、街の南側にある捷運淡水線の淡水駅に着いた時には、金山から80分の時間が経過していた。

淡水は夕暮れの街として知られる。
駅は淡水河のほとり
島国なのに何故か大陸的な雰囲気で、渡り船のシルエットが浮かぶその様は、「悠久」の2文字が相応しい。
淡水●淡水河

本当は、この街を歩き紅毛城を見たかったのだが、川沿いのバンドに押し寄せる人波、そしてその脇の路地も凄まじい人、人、人。
そもそも、この駅周辺が人で埋め尽くされているのである。正直、週末の渋谷なぞ目じゃない。
それを見ただけで疲れが出て来た私達、時間の都合もあり、捷運の客となった。
淡水駅

◆やっつけ仕事
捷運淡水線は1997年の開業であるが、もともとここには台鉄の淡水線が走っていた。
しかし、非電化・単線のため、沿線の市街化と輸送量増加に対応できず1988年廃止、10年近い年月を経て捷運に改築された。
したがって、円山〜淡水と路線の殆どが地上部を走る。

電車の車窓から見ると、旧路盤とおぼしき部分もある。若干は線形改良もされているようだ。
淡水あたりの駅は、全て相対式ホームなっており、貸し自転車も備えられている模様。
その途中、復興崗の駅の横には巨大な車庫がある。
ここから北投駅までの配線等を見ていると、日本の通勤電車とは全くシステムの異なるものである感じがする。
機能的だが、より無機質な感じだ。

さて、淡水線には新北投支線という僅か1.0Kmの支線がある。
台鉄の淡水線の時代から継承したものであるが、よく捷運改築時に廃止というハナシにならなかったものである。
北投の駅は淡水・新北投両方面へ直通可能なように、非常によく考えられた配線になっている。
しかし、諸般の事情で、新北投支線は専用編成を使用した、チョン行・単線運転となっている。
その電車が、これ↓
新北投支線電車 新北投支線電車

本線用(6連)を分割し、3連にしているのだが、
新設運転台側は、JR西日本の113系3800番台といい勝負である。
ちなみに前面には「新北投列車」と書かれている。

慌てて乗りかえると、新北投へ電車は発車した。
しかし、いつまでたってもトロトロ運転である。なんでも騒音問題があるんだとか聞いた。
おかげで、車窓はよく見える。そういえば台湾の建物はみな、窓に鉄格子が取りつけれらている。
火事の時に、やたら死傷者の数が多いのは、そういう理由があるからかもしれない。

やがて、プールが見えてきた。もう日も落ちかかっているのに、子供たちが泳いでいる。
そうしているうちに新北投に付いた。

新北投は台北近郊の温泉街である。
しかし、かつては、韓国・ソウルの清涼里(588)と共に、所謂「赤線」だった。
昔、台湾や韓国に行くと言うと白い目で見られたのは、こういうところ主目的とした殿方が多かったためである。
ただ、今、この時点で駅前を見る限り、あるのはマンションとファーストフードだけ。
まあ余り探索したいものもないので、すぐに駅から台北へ戻った。
新北投駅
●新北投駅前

◆百貨店の無国籍
当初、今日は士林にでも行こうか?ということだったが、
結局、中山近辺で夕食ということになった。
台北駅から中山までは地下街が通じている。その並びは、日本と対して変わりがない雰囲気である。

中山は新光三越百貨店を中心に、比較的若い女性向きの服関係の店などが多い感じである。
その新光三越の中に入ってみたが、日系資本ということもあり、まるで異国の感じはしない。
それこそ、東京近郊と同じような感じである。
おもちゃ売り場に鉄道模型・・の淡い期待は当然ながら裏切られるが、その替わり。プラレールをはじめ日本製品+日本語が溢れかえっていた。

街を一回りしたが、どうもこの街は食堂が少ないようである。
どうにか、小さな店を発見し、炒麺を食べることにした。
鮭炒麺とエビ炒麺を頼んだのだが、鮭のほうが高い。
??と思ったものの、よく考えればここは南国。エビは兎も角、鮭は100%輸入品になるわけで、
高くなるのも頷ける話である。
味付けも、日本人好みの感じである。台湾は韓国に比べ、こういうった点でハードルが低そうである。

H1氏は花東線の客レに乗るために、今晩の夜行で台東へ行く。
ここで、互いの道中の無事を願いつつ、わかれた。

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