第5日:初花凛凛 2005年9月7日(水)
〜台南、南廻線〜

◆変わらぬ風景
朝5:30に起床する。
TVを付けると、Singer Songer(こっこ と くるり)の「初花凛々」のPVが流れている。
あの軽快なリズムが、何故か台湾の車窓を思い出させる。

今日は、台南、高雄、枋寮と乗り継ぎ、東海岸南部の街 台東までへ行く。
未だ薄暗い中、ホテルを出た。目の前のコンビニで、飲料とパンを買った。
この店、「合法的遊技場」と書いてある。なんのことはない。
小さなゲームセンターが併設されているのである。

駅までは3分と直ぐである。
昨日は気付かなかったが、改札口の高い吹きぬけに大きな時刻表が掲げられている風景は
そこはかなとない旅情を誘う。
嘉義駅舎内部

既に駅構内には、高雄ゆき復興号と松山ゆき自強号が入線していた。
が、私が乗る列車はそのどちらでもない。
縦貫線南部(高雄〜台南・嘉義・彰化)を1日6往復している「冷気平快」である。
実は、今回、嘉義に泊ったのは、この始発駅の一つが嘉義であるためだ。

冷機平快は、平快用の客車に冷房機を搭載して復興号用に格上したものの、
不評を買ったため、再び平快用に格下したもの。
したがって、普通運賃で乗れる列車では数少ない冷房付き(そもそも普通列車が壊滅状態だが)となっている。
また、塗装は白と水色の復興号用である。
冷機平快

自強号が発車したあと、ヤードに止まっていた平快用の車輌が移動してきた。
日本製ということもあり、日本国鉄の旧型客車に似た感じである。
回転クロスシート付きで、よくスハ44系に例えられるが、製造年代は昭和40年代である。
窓は、Hゴムによる固定式に改造されているが、車輌の手入れは、あまりよくないようだ。

6:08、平快203レ(往 高雄)は発車した。
駅を出ると、一面の水田が広がる。
途中駅は、日本時代からの木造駅舎(水上など)や、古い農業倉庫が残っている。黒貨車の姿も多い。
気分は、久留米、荒木、羽犬塚・・・。
日本の幹線普通〜とりわけJR九州に乗っているのと、雰囲気が殆ど変わらない。
倉庫
●隆田駅の倉庫

そんな駅の一つ、林鳳営についた。
ところがいつまでたっても発車する気配がない。
優等列車の時刻表を見たが、追いぬかれそうな自強も呂光もない。
不思議に思っていると、台湾の701系ことEMU500形通勤電車が静かに横を過ぎて行くではないか。
そう、同じ各駅停車でも、向こうのほうが格上(運賃もワンランク上の復興号料金)なので、ここで道を譲るのである。

今日、午前中は台南の街を歩く予定だが、一旦そこを通り越して、次の保安駅まで行く。
7:41 駅手前で陸橋工事の関係で徐行したが定刻で到着した。
保安駅 保安駅

保安駅 保安駅は、日本時代の駅舎がそのまま使われている。
非常に手入れがよく、内装・外装ともにキレイな状態である。
しかし、こんな駅は日本だと既に無人化されていそうである。
やはり、未だ合理化が進んでいないことを感じると同時に、それが鉄道の楽しさと無縁ではないことを思う。

さて、当初、保安駅で列車撮影を考えていたが、光線状態が悪い上に島式ホーム1本と不向きなことこの上ない。
保安駅のもう一つの名物・・2つ隣の永康駅までの縁起切符(保安→永康で永保安康という言葉になる)を購入したあと、
20分後の列車で台南におり返した。

台南につくと、直ぐに反対のホームに2本目の平快が入線した。
古いレールを組み合わせたホーム上屋には花が飾られ、雰囲気は非常によい。
まさに、「日本国鉄」のパラレルワールドである。
カケーキテーシャ
●冷気平快と普通電車

数分の停車の後、平快は発車した。
そして最後部を撮影しようとファインダーを除いていた。 もうそうろ最後だなあ・・と思っていると、客車の後に
何かがくっ付いて付いているではないか。
DC連結

なんと、支線用のDCである。
あまりに唐突なため、シャッターを押すタイミングが狂ってしまった。
あとで台湾に詳しい方に聞いたところ、集集線用DCを高雄の工場までもって行く為だったのではないか? とのことである。
しかし、コレだけ見たらまるで昔の花輪線・・・。

◆名ばかりの古都
さて、今回、台北以外に南部の町をもう一つ歩こうと決めていた。
そうなるとだいたい高雄か台南ということになるが、高雄のみどころは駅から離れているところが多い。

それに対して、台南は中心地に日本時代の建築物が集結し、大切にされているものも多い。
その上、日本時代(1936年)の駅舎が現役。ということで、こちらに決定した。

台南は人口75万人、高雄とともに西南部の中心都市の一つである。
歴史は台湾の都市の中で最も古く、1600年代初頭にはオランダ人が占拠し、ゼーランジャ城、プロビンシア城を建設。
そのオランダ人を駆逐した鄭氏統治時代、それに続く清朝時代も台湾の行政の中心地として栄えた。 つまり、台湾における「古都」と呼べる街である。

さて、台南駅舎でペットボトル飲料を買うことにした。
あまりの暑さで、既に1本消費している。ということで駅の台鉄セブンイレブンへ。
で、お茶ばかり飲んでいたので、たまには別のものを・・・ということで、ジュースを選んだ。

一歩外に出る。しかしロータリーを15階建てくらいの建物と漢字が取り囲んでおり、
まるで古都という雰囲気ではない。
その中に、ポツンと真っ白な台南駅舎が建っている。
従って、堂々とした・・という雰囲気はあまりないが、飾り気のない白色は、そこだけを非中華な空気にしている。
ポーチ(車寄せ)は現役で、次から次へとタクシーや自家用車が来る。
台南駅
●台南駅舎

一通り台南駅を見た後、一路中心地へ向かって歩く。
かつて大正街とよばれた中山路。典型的な台湾の町で、ビルの1階が歩道代わりになっている。
ところが、これが台北、嘉義に比べデコボコが酷く、とりわけ歩きづらい。
そして交差点では人がいないと、赤信号を無視して、オートバイが右折してくる。
なにが「台北よりおっとりした時間が流れている」だ。「○×の歩き方」よ!
民族路

ほんの数百メートル歩いただけなのに、もう喉が渇く。
先ほど買ったジュースを取り出して飲んでみた。

ん、何、このクドイ甘さは?????。

あらためてジュースのラベルを見てみると「Star Fruit」と書いてある。
一時期、日本でも話題になったスターフルーツである。
うむ、正直 飲料には向いていないと思う。

原宿
●中山路の原宿ヘアサロン・・・やはり日本ブランドは絶大のようです。

◆ガイドブックにない建物
街の中心部に、ロータリー式交差点の湯徳章紀念公園(民生緑園)がある。
ここからが、日治時代建築物の集合体である。

そのうち現在残っているものとして、中心地に存在するのは
手許のガイドブックから拾えたのは以下のものである。

・台南州庁 (現:台湾文学館)
・台南合同庁舎(現:台南市消防隊)
・日本勧業銀行台南支店(現:土地銀行台南支店)
・林デパート(廃屋)
・台南警察署(現:台南警察局 1931年)
・台南地方法院
・台南武徳殿 (現:忠義国民小学校 講堂 1936年)
・日本放送協会台南放送局

しかし、である。
今回廻った結果は、台南武徳殿は修復工事中。
台南放送局は台風の被害で応急補修中と、惨々たる状況である。
ああ、台北 中山堂での不安が、台南で炸裂してしまった。
でも、「壊れたら壊しちまえ!」ではなく、補修して後世に残そうという姿勢は、私たちの国も見習う必要があるように思える。
特に、台南地方法院には、屋根の上に、まるで公園の蒸気機関車のように屋根を被せている。
台南放送局 台南地方法院
●修復中の台南放送局(左)と、屋根のついた台南地方法院

・・・最も、日本の場合、古代遺産で手一杯で、近代遺産には手が回らないというのが実情なんでしょうが。

さて、市内の地図には、これら中心地の日本時代建築物を巡る観光ルートが記されている。
そこを見ると、日本のガイドブックに載っていない建物もあった。
その一つが、中華民国紅十字会台南支所(ようするに赤十字)である。
水色の半木造洋館で、台南地方法院と同じように屋根をかぶせて、過酷な気候を凌いでいる。
赤十字
●紅十字会台南支所

ところで、この赤十字の建物、日本時代はなんと「台南愛国婦人会館」という名称だったのである。
つまり日本の戦時中の婦人団体である。このことは全く隠されず、市のサイトにすら載っている。
思わず、唖然。

そういった有名建築物以外にも、この街には木造建築は残っている。
新しいビルの谷間に、灰色の瓦を載せた三角屋根が、あちこちに見える。
木造建築 木造建築

さて、台南は歴史が古いので、廟もあちこちに残っている。
本来、台湾を尊重するなら、そちらこそ優先的に見るべきであろうか。
しかし、建物めぐりで精一杯。
結局、孔子廟の前庭を通りすぎるだけだった。
そこで見たのが、太極拳に興じる人々。
その独特な動きをしばし見ていたが、やはりここは中華圏でであることを思う。
太極拳

台南●中山路 新光三越附近にて。これはもとから台湾の建物?

◆蘆筍汁
台南駅に戻ってきた。
本当なら、駅東側の成功大学にも行きたかったが、時間がないのであきらめる。
成功大は日本時代の台南高等工業学校を全身とする、理工系では台湾トップクラスの大学である。
日本時代の建物が現役のほか、蒸気機関車も保存されているということだったが、少々残念である。

その駅前で思わず声を掛けられた。何か道を尋ねらたようだったが、
当然ながら理解できるわけもなく、「対不知。我是日本人」というと、相手はびっくりしていた。
従来、自分は新モンゴロイド系だと思っていたが実は中国南方系なのかも。
韓国じゃ、こんなことなくて、すぐに日本人とバレたんだが。

当初、乗車予定だった高雄ゆき自強号は遅れている。
1003列車というから、一昨日 台北→苗栗で乗った列車ではないか。
もしかしたら遅れの常習犯なのかもしれない。
で、それよりも早く来る自強号 1005レも未だ来ていないので、こちらに乗ることにした。

さて、駅には紙パックのジュースが売っている。それをよく見ると、
アスパラ

蘆筍汁・・・かの宮脇俊三氏の名著「台湾鉄路千公哩」に出て来る「アスパラガスジュース」である。
早速買ってみることにした。

ストローを突き刺して飲み始める。
・・・なんだ、この若干青臭くて甘い味は、妙な後味である。
スターフルーツを超えるくどさ! まさに、飲むルー大柴である。

冷えているので、一気に飲み干してしまったが、ぬるかったらとんでもじゃないが飲めないと思った。
ちなみに、私は普通のアスパラガスもあまり好きではない。
結局、フツーのお茶を買って口直し・・。ことなきを得る。

晩15分で入線した自強1005レは、またしてもEMU1000である。
階段近くの車輌は自願無座の客でいっぱいで、着席をあきらめかけていたが
先頭から2両目ではなんなく座れた。
この先、高雄までノンストップなので途中から他の客が乗ってくる心配はない。

台北から何度となく交差を繰り返してきた高鉄の線路が、地面に降りてくる。
高鉄の終点、左営(新)駅である。
車輌基地には、日本から持ち込まれた700T系新幹線車輌もスタンバイ済み。
我が日本の超高速電車が、この親日的な国土を走ることを思うと、どこか感慨深い

その辺りで、ちょうど、昼の北行 冷気平快とすれ違う。
まさに、昭和57年11月改正直前の東北本線といったところだろう。
そういえば、あの頃は、未だ日本の街も活気があったように思う。
やはり、台湾の街も、これからシャッター通りばかりになってしまうのだろうか?

◆終点高尾
終点、高雄についた。縦貫線の南の終点で、台湾第2の都市の玄関である。
もともとは原住民の「ダーカォ」に対して、漢民族が「打狗」という字を当てはめていたが、
あまりに字面が悪い(!)ので、日本時代に京都の高雄から借字したという歴史がある。
ゆえに、日本のメディアでは日本語での音読みが原則の台湾の地名であっても、
「コウユウ」ではなく「タカオ」と発音されている。
高雄

高雄はホーム4面を持つ大きな駅である。
ここでは駅撮用に時間を割いたので、早速カメラを取り出した。
丁度隣のホームには、インド製の通勤客車で構成された屏東線の普通が入線している。
堂々とした長編成で、荷物車(台湾では行李車)も連結されている。
通勤型客車 荷物車

そして、黒貨車による短編成の貨物列車も中線に待機。
機関車こそ米国GM形だが、後ろの貨車は日本の物とウリ2つ。
やはり、日本国鉄の面影を重ねてしまうのも無理もないところだろう。
貨物

一通り撮影したあとで、改札を抜けた。
改築途中なのか、跨線橋は仮設の雰囲気である。

さて、高雄でも一つだけ見たかったものがある。 それが旧高雄駅舎。
高雄駅改築にあたり、曳屋を行い保存され現在は「高雄願景館」となっている。
しかし、未だ工事中なのか、中に入ることはできなかったのは残念である。
それにしても、縦貫線には、新竹、台中、嘉義、台南、そして高雄と、
ずいぶんいろいろと風格のある駅を建てたものである。
旧高雄駅 新高雄駅
●新旧高雄駅舎

結局、高雄では、駅前のバスターミナルを見ただけでおしまい。
そうなると、次の問題は昼飯をどうするか・・・ということになる。
いい加減台湾弁当も飽きてきた。
そんなところで目に入ってきたのが「寿司」のパック。
購入してみることにした。

◆マリンブルーのままでいて・・。
13:02 屏東線の復興号177レに乗る。
この列車は復興号であるが、対号快車(指定席)ではなく、全車自由席である。
復興号は、外観は呂光号と似たようなものだが、座席はビニールレザー張りである。
復興号
●復興号

10分遅れで発車、高雄の車輌基地を抜けると、郊外の団地の中を走りぬけて行く。
この先、屏東までは複線電化で、普通電車も走っている。
途中駅には、日本国鉄と同じ貨車移動機が待ち構えている。

少しづつ天気が曇りはじめてきた。
やがて高雄県と屏東県の境を流れる下淡水渓へ。
1914年(大正3年/民国3年)にかけられた旧橋梁はトラス式、全長1530mで、戦前の日本国内の鉄道橋梁としては内地・外地あわせても最長のものだった。
1987年に現橋梁がかけられてからも、そのままの姿を留めており近年は観光施設としても注目されていたようだ。
しかし、残念ながら2005年6月の大雨で一部が破壊されてしまった。
灰色の空の下、そのままの痛々しい姿を晒している。
屏東側の築堤上には、わざわざ持ち込んだと思われる、青い客車が数両並べられていた。
下淡水渓 下淡水渓

屏東を過ぎると単線非電化となり、一気に風景は亜幹線の様相となる。気分は指宿枕崎線である。
どこまでも続くビンロウ椰子とサトウキビの畑、ウナギ養殖の池。
間延びしたノドカさがどこまでも続いてゆく。
途中おおきな街は潮州くらい。南州では、駅裏に製糖鉄道の車輌が保存されているのを見つけた。
椰子畑●竹田にて

さて、高雄の駅で購入した寿司を食べてみる。
蝦の軍艦巻きと肉の軍艦巻き、稲荷寿司はたこ焼きみたいな形である。
で、それらを口に入れてみると・・・。
どれもパサパサした感じで、どうも食感が違う。

1時間40分かけて枋寮についた。2面4線の旅客施設とガラーンとしたヤードを持つ。
駅前の街は小ぢんまりとしていて高いビルは見当たらない。田舎町の雰囲気である。
そして、真っ直ぐ数百メートル進めば、もう海である。
街角にはお決まりの国光客運のバスターミナルと、怪しげなゲームセンターが。
露店も出ていて近所の人が集まっているが、ヒマそうである。

枋寮 枋寮
●枋寮駅前(左)、奥が駅舎

しかし、約20分で、台東ゆきの列車に乗らねばならない。
セブンイレブンで飲料を買って駅に戻って来た。

ここからが南廻線である。台湾一周鉄道で最後に完成した区間で、1991年の開通である。
私が乗るのは、普通列車 355レ。
4両編成の民国ブルーの客車は、今朝乗った冷気平快の種車となったものだ。
うち中間の2両は団体のジジババで占領されていたため、機関車直後の車輌に乗車した。
席の3分の1程度が埋まったところで、15:11発車。
さすがに新線というだけあって、施設は新しい。鉄建公団AB線といった趣だ。

やがて、路線は高度を上げて行き、海や町を見下ろす形になる。 そして、枋山を過ぎると東シナ海に別れを告げ、山間へと入ってゆく。
台湾の南の端は恆春鎮(墾丁国家公園)であるが、その遥か手前を南廻線はショートカットしているからである。
ちなみに次の古荘は太平洋側にあり、駅間距離は実に26.9Kmにもなる。
トンネル

枋野信号所を過ぎるると、やがて長大トンネルへ。将来を考えて複線で敷設されている。
そしてトンネルに突入した瞬間、団体客が後のほうの客車に乗った理由が解った。
とにかく、GM製電気式DLは、騒音が凄まじいのである。
耳がツンザケそうである。そして、排気ガスの臭い。
思わず阿里山往路を思い出す。

漸く太平洋側に出る。目の前にはマリンブルーの海がどこまでも広がって・・・いるはずだった。
が、無情にも雨。どこまでもどんよりとした海と空が広がっているだけで残念である。
海

滝渓駅で普通列車と交換。そういえば、南廻線の駅は全て島式ホームである。
また、既に休廃止された駅も幾つか見かける。勿体無い
しかし景色が単調で、飽きてくる。
途中ですれ違った自強号を見て、あっちのほうが良かったと思ってみたりもする。

温泉で有名な知本で漸く内陸に入ってゆく。
そして終点の台東に17:05 到着した。

◆寂しげな街
さて、現在の台東駅は南回線開通後に卑南駅を改築したもの(当時名称:台東新)である。3面6線の旅客施設と車輌基地、ヤードを備え非常に大きい。
しかし、ここから市街地にあった(旧)台東駅までの4Km強の区間は2001年に廃止されてしまった。
したがって、バスに乗らねばならない。
台東駅

駅前に出る。しかし、やたら大きな台東駅以外はなんにもない。
だだっぴろい芝生の駅前広場があるだけで、不要な新幹線駅としてヤリ玉に上がる風景を思い出す。
その片隅に台東客運のバス乗り場がある。そこに入ってるのはハイデッカーの観光車である。
台東駅

が、運転席のところに「台東総站(=台東旧駅)」と書いてある。
運転氏に紙を差し出せば、確かにこれが市街地方面への連絡バスとのこと。
東部幹線の自強号と連絡している故に、こんな場違い?な車輌を使用しているのかもしれない。

バスは10人ほどの客を乗せ17:50に発車した。
幹線道路沿いは既にネオンが光っているが、歩く人の姿は比較的少ない。
完全なクルマ社会といった感じである。それでも沿道の店は個人商店ばかりで、大規模な駐車場があるような店はない。

漸くビルが増えて台東の市街地に入る。自由乗降制らしく、次々に降りてゆく。
終点の台東旧駅前についた時には、私一人だけになっていた。

さて、今夜のお宿は・・某歩きかたに書いてあった旧駅前の安宿(旅社)にした。
明日の朝、5時代のバスに乗らねばならないからである。
そこの親父さんが日本語を喋られるということだったので、決めた。
とりあえず、中国語の紙を差し出すと、直ぐに日本語が帰ってきた。
綺麗な(懐かしい)言葉遣いである。
500元(1750円)ということもあり、宿泊者名簿を見ると日本人の名前がズラズラ書かれている。

おばあさんに付いてゆくと、部屋に通された
・・・・白一色で明るい感じが、今度こそ本気で巨大ゴキ●リの恐怖におびえた。
布団も何か薄汚れた感じである。
教訓:某歩き方で「××な感じ」と書いて合った場合、それには裏の意味がある。

まあ、そんなこんなでお腹も減った。
町に繰り出すことにした。
しかし、これまで歩いた台湾の街に比べ、ひっそりとしている。
確かに、ネオンは輝いている。英語会話教室など、これまでの街で見たものも揃っいる。
しかし、街を行く人も、スクーターの台数もめっきり少ない。
お店も、夜市も、どことなくヒマそうだ。
宮脇翁の20数年前の旅行記では、華やかだった様に読めたのだが・・・
やはり地方都市ということで過疎化が進んでいるのだろうか?

結局、その中の1軒に入り飯を食べた。
店の片隅では、家族全員?で料理の下ごしらえをしている。
韓国の街でも見た光景だが、本来は、そうやって親の仕事を子供は理解していったのだろう。

その後、新聞や、今晩のデザート、そして飲み物を調達するために、セブンイレブンに入った。
しかし、その途端。私は固まった。店の人の顔が漢民族とは明らかに違う。
そして、言葉も・・訛が強いだけかもしれないが、私の耳には、これまで西海岸で聞いてきた北京語とは
全く違うものに感じた。 そう、原住民族の人なのである。
彼らは南方系なので、大陸系の漢民族とは顔つきが違うのは当然なのだ。

西海岸では漢民族との混血が進んでしまったが、
東海岸や山間では、未だ独自の民族性を保っているところも多い。
ここにきて、「多民族国家としての台湾」というものを、実感するようになる。
なお、台東周辺に住んでいるのは卑南(ピュマ)族と阿美(アミ)族である。

旅社に帰ってきた。
おじいさんに昔話しでも聞けたら・・と思っていたが、既に寝てしまった様だ。
台東の夜は早い。

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