第6日:郷愁 2005年9月8日(木)
〜花東線200列車、平渓線十分〜

◆まだ眠っている街を抜け出して・・
夜が明けたばかりのころ、旅社を出た。
早速 旧駅前にたむろすタクシーの呼び込みが激しい。
今日は花東線(東部幹線)を普通列車200レで北上し花蓮へ、
その後、東部幹線で瑞芳へゆき、支線の平渓線に乗ったあと、台北に戻る。

さて、200レは台東を7:00に発車する。
ところが、新站ゆきの連絡バスは5:45と5:50と5分続行で出たあと、1時間以上もあく。
仕方がないので、このバスに乗ることにした。
それにしても、どういうダイヤを組んでいるのだろう・・・?と思ったが、その理由はあとで知る。

バス発車までの短い時間、旧台東駅を見た。
現在は、台東鉄道芸術村という名称になっているが、
まるで廃止になった地方交通線の駅のように、構内がまるごと保存されている。
その片隅には、ワフのダルマが・・。異国の地でも、トワイラなものには目がないようである。
旧台東駅 旧台東駅

薄暗い旧駅のバス停にやってきたのは、昨日と異なり、至って普通の台湾型路線バスだった。
私と別の一人の、わずか2名の客を乗せて、まだ眠っている台東の街を抜け出す。

20分ほどで新駅についた。結構な人であふれている。
不思議に思ったが、駅の時刻表を見て氷解。台北からの夜行列車が到着したからなのだ。
5分間隔でバスが走るのも、つまりは、この客を輸送するためのようだ。

早速、花蓮までのきっぷを買い、駅構内に入る。
運賃は166元・・つまり566円である。激安!

先ずはホームの端から南廻線の普通を撮影。今日は7連である。
そして、先発の自強号が発車後、ようやく今日のメイン、200レの客車を撮影する。
民国ブルーの4両編成で、うち花蓮側2両が日本製の平快用、台東側2両がインド製の通勤用である。
200列車

私は平快車に座った。
発車時刻が迫ってきたが客はまばらである。
結局1両に5〜10人程度が乗り込んで発車となった。
原住民族と思しき顔立ちの人も多い。

◆各駅停車花東線
200列車 台湾東海岸の主要都市である花蓮と台東。その2つを結ぶ道を花東公路という。
全長約200Km。太平洋岸に沿う海線と、海岸山脈と中央山脈に挟まれた内陸を行く山線がある。
その山線に沿って敷かれたのが花東線(旧称 台東線)で、日本統治時代に762mmゲージ(ニブロク)で開業。
そして、1982年に、北廻線開通(蘇澳新〜花蓮)に合わせて1067mmゲージに改軌された歴史を持つ。
この200レはこの 台東〜花蓮を4時間かけて結ぶ。この区間の数少ない普通列車である。


台東を出た列車は大きな検車区を抜けると、小さな谷間をゆく。
やがてトンネルを幾つか抜けるが、この路線には小さな分水嶺が2箇所ある程度で、
あとはひたすら平地を行く。

トンネルを抜けると、やがて、沿線風景は一面の稲田となる。
その背後には海岸山地の山々が・・・日本の農村地帯と同じである。
ただ、椰子の木があることを除けば。
水田
●瑞源〜鹿野の車窓

駅は殆どが島式ホーム。改軌時に新築したもので、どこもかしこも似た雰囲気である。
ただ、普通列車しか止まらない駅は荒れているものが多いようだ。
だからといって、このあたりにバス網があるわけでもないようなので、旅客流動そのものが薄いのかもしれない。
そして、台東から約40分、気動車平快とすれ違った關山で車内の客は殆どが降りてしまった。

そして、本日第一の希望の地、池上には8:05に着いた。5分停車である。
随分日本的な感じの地名だが、これは日本人入植者の村だったため。
当時、入植地は圧倒的に東海岸に多かった。
この花東公路には、彼らが残した田園地帯があり、今も著名な米所である。
これを使った名物が「池上便當」。駅ホームでの販売もあるという。

早速、ホームに下りた。しかし、それらしい人物が見当たらない。
あー、なんてこった。4時間もメシ取り上げか・・と諦めかけていた時、
台東行きの自強号が入線してきた。
その途端、街中に響き渡るような声で「ビェンターン、ビェンターン」と叫ぶ声が聞こえるではないか。
そして、どこからともなく、なつかしい立ち売りスタイルのお姉ちゃんが現れた。
あわてて掛けより、無事1箱を購入した。彼女もまた、原住民族のようである。
列車が再び走り出してから、箸を取る。
池上弁当

さて、これまで西部幹線で何度か目にしたものが、ごはんの上に排骨肉が載ったものなのに対し、
この便當は、日本風の内容/味付けとなっている。
したがって具財は多く、鰹節を使うかわりに八角もキツくない。
そして旨い米。台湾で食べた弁当の中で、最も美味しかった。
もうひとつ買っておいても良かったな・・・。

沿線は余り代り映えのしないながらも、どこか懐かしい景色の中をひたすら進んで行く。
さして輸送量が必要な区間とも思えないが、路線改良は実施されていて、時折、真新しい高架橋が見える。
そういえば、台湾の新線の橋梁は手すりを含め、みなコンクリ製である。塩害、多湿対策なのだろうか?
沖縄の民家を思い出す。
そして川は、幅はあるが水量が少ない。一瞬枯川かと思わせるほどだ。
川
●池上附近にて(卑南渓)

そんな路線改良区間が延々と続くところがあった。
ショートカットする形で2駅分、はるか彼方に高架橋が延々と続くのが見えた。
正直、こんな投資して大丈夫か?と思うのだが。。。
そんな新線区間が終わると、花東線の要衝のひとつ、玉里駅についた。
なにやら茨城県のローカル私鉄のようだが、読みは「ユリ」。というわけで駅名表は百合の写真に書かれている。笑える。

その中線には、かつて光華号として西部幹線は疾走したDR2700が3編成留置されていた。
東急車輌製で、現在は花東線の普通で使われている。
南海高野線の6000系を優等車輌化したような、好ましいスタイルをしている。
ホームの発車案内を見ると、6分ほど停車するので、幸い撮影することができた。
玉里百合 DR2700


ここまで約2時間、しかし、この先まだ2時間乗らねばならない。
そこで、気分を変えてインド客車に乗ってみることにした。
こちらは、車内が木目デコラだったりするのだが、なにせシートピッチが狭く、旧優等車と差は歴然である。
その上、手入れが悪いのか開かない窓が続出で、暑い車内が更に暑くなる。
ちなみにいちばん後の車輌は、鉄道職員の溜り場となっていた。
結局、2駅ほど乗って1両目の平快車にもどってきた。
寿豊の旧ホーム

途中の駅にはナロー時代の遺跡らしいものも見える。
駅舎だけが遠くに離れているような駅も・・・。
そこにこの路線の歴史を感じるが、ナロー時代は、この列車と同じくらいの時間をかけて走るのが特急だったそうであるから、まあ、確実に進歩はしているのである。

台東を出てからはじめて、住宅らしい住宅が立ち並ぶと、間もなく終点の花蓮である。
平快
●花東線200レで乗車したSPK32601 花蓮にて

◆保存放置車
現在の花蓮駅は、北廻線開通時に新設されたものである。
もともとは市街地に近いところに花蓮と花蓮港駅があったが、
そこから北への延長ができなかったためである。
いわば新大阪状態にあるわけだが、流石に開業から25年経つので、駅周辺にはビルが立っていて往来も激しい。
それでも、とにかく大きな駅前広場など、どこか無機質な感じがするのは否めない。

さて、花蓮は台湾随一の観光地、太魯閣(渓谷)への玄関口であるが、それ以外ではまるで用のない町である。
で、私の目当てといえば、駅前広場の片隅に保存されているニブロク時代の台東線の車輌である。

花蓮駅前の保存車
しかし・・・、この台湾の気候で屋外展示、しかも屋根なし。
その上、木造車が多い。現状では形を保っているが、将来が非常に心配である。
そして、地面。雑草が生え放題なのである。
聞いた話しでは、もともとコンクリ打ちだったところを芝生広場にするつもりだったそうだが、
現在は放置状態である。
しかし、ここに保存されている車輌は、みな一見の価値がある車輌ばかりである。

LDR2307
これは宮脇翁が、あまりの速度に「もうやめてくれ」と叫びそうになった
ナロー時代の特急(光華号、最高速度70km/h)の車輌 LDR2307(1968年 台北機廠製)である。
台東線など外地のニブロクは、国内のそれよりも規格が大きかった。
故に、台東線改軌時に、サブロク用の客車に改造されても、栗原電鉄の機関車のような
アンバランス感がなかったのである。
その上、なんでもブリキ製らしい。

LTPS1102 LTPS1102車内
そしてこちらは、ロングおじさんこと吉村光夫氏が不眠になったナローの寝台客車 LTPS1102(1930年 花蓮工場製)である。
木造車で、車内も木製。・・まるで蚕棚である。
そして、台東〜花蓮の200kmで夜行が必要だったというのも隔世の感がある。

ほかにもテンダー付蒸機など、貨車・気動車・客車、いろいろ置いてある。
苗栗のように大切にしてあげて欲しい。

◆絶壁を行く
花蓮で1時間を過ごした後、自強号に乗る。
花蓮以北は電化されているが、台東始発なのでディーゼルカーである。
これも東急車輌製であるが、車内に風水に基いた鍵穴状の門があるのが面白い。

さて、東部幹線を構成する各線のうち八賭〜宜蘭〜蘇澳の宜蘭線と台東線は
日本統治時代に完成していた。しかし、その間を結ぶ蘇澳新〜花蓮が北廻線として開業するのは
実に1980年のことである。

この区間・・蘇花公路は、2000m級の台湾山脈が直接太平洋に面する地形となる。
したがって、高さ200m超の大断崖となり鉄道はおろか道をつけることさえ難しかったためである。
戦前、急崖にスジを引くようにつくられた1車線の道にバスは編隊で1日1往復、通常は船を使ったという。

花蓮の駅を出ると直ぐに街は途切れる。
かわりに、これから向かう断崖が見える。まず国内では思い浮かばない、強烈な高さである。
そして、海。台湾ではじめて目にする、南国らしいマリンブルーである。
「これだよ。私がみたかったものは!」

しかし、直ぐに景色は暗闇に変わってしまった。
北廻線は、その断崖を沢山のトンネルで貫く事で開業したためである。
しかし、開業時は単線非電化であったが、20年強で複線電化に作りなおさねばならかったのは
勿体無く思える。もっとも旧線は道路として再利用されているところも多いようだが。

川が流れている部分は、トンネルが途切れる、その僅かな空間に駅がある。
いずれも旅客数は少ないのだろうが、その変わりに、ホキ3000のようなセメント用の貨車が停車している。
この当りは石灰石の産地なのだろう。

花蓮では半分程度が空席だった自強号も宜蘭を過ぎる頃には満席となった。
再び海を見ながらの走行となる。
遠くに島影が見える。「もしや与那国島か?」と思うがそんな訳はなく。 亀山島というらしい。

◆溶けこむと云ふ事
瑞芳に到着したのは である。
山間の小さな町で、駅前はそれなりに賑わっている。
瑞芳駅 瑞芳駅

やがて、客を満載したバスが到着した。九分(分はにんべんがつく)から着たものだった。
九分は映画「悲情都市」(1989年、侯孝賢監督)の舞台となった旧鉱山町で、日本人観光客も多い。
駅にはヘンテコな日本語の案内張り紙がある。

しかし、私が向かうのは、それと丁度反対方向の平渓線である。
もともと終点の菁桐から石炭を運ぶためにつくられた鉄道であったが、閉山で貨物は廃止。
現在は台北に近い観光路線として注目を浴びている。

まず、瑞芳の窓口で一日乗車券(54元)を購入。
「平渓線週遊票(遊はしんにょうの変わりににすい)」とメモ帳に書くと、カタコトの日本語で対応してもらった。
どうやら平渓線も日本人が訪れるらしい。もっとも大半は私のようなマニアだと思うが。
一日乗車券

そして駅舎には観光用の路線地図がある。鉄路局も売り出しに賢明なんだなあ・・と
思って眺めていると、やおら女性に声をかけられた。
何やら、アンケートのようで両手に冊子を持っている。
また「対不知。我是日本人」というと、あっけにとられた顔をしながら、そそくさと退散していった。
これで、現地人と間違われるのは3度目。これは台湾に永住しろという指令か?

さて次の平渓線列車は隣の候同(同は石へん)発なので、一駅だけ呂光号に乗車する。
再びホームに戻るが、ホーム毎に改札口がある少々変わったつくりである。
側線には日本と同じ形の石炭車が1編成とまっているが、これは深澳線(貨物線)へ向かうものである。
石炭

候同は小さな2面4線の駅で、おおよそ優等列車が止まるようには感じられない。
駅前にはかつての栄華を物語るように、石炭関連の廃墟が鎮座している。
跨線橋を使い反対のホームに止まっている2連のディーゼルカーに乗り換えた。
同じようにガイドブックを持った現地の若者が多数乗りかてくる。
廃墟 平渓線

さて、平渓線は、さらに一つ隣の三貂嶺で東部幹線から分岐する。
時刻表では呂光号の2分後に平渓線列車が発車するのだが、幹線でこのダイヤは、短すぎる様に感じた。
真相は・・。平渓線の列車は上り線を走った。
台湾では複線といっても、欧州のような単線並列方式がデフォルトだからこのような芸当ができるのである。
やがて、呂光号に続く貨物列車と平走する。

三貂嶺から平渓線に入ると、レールは急に細くなり、うらぶれた支線の雰囲気となる。
次の大華で、それなりの客が下車、同じくらいの客が乗ってくる。
それは、この先にある十分大瀑(滝)を見に行くためなのだが、なんと線路を歩いて行くのである。
おかげで、線路敷には観光客が沢山。警笛鳴らしっぱなしであるが、列車が近づくと悠長にも
カメラを向けてくる。
その上、トンネルまである。端から見ていてもハラハラするこんな路線、運転士氏は冷や汗ものだろう。
ちなみに滝の入口は線路に面してある。

そして、切通しを抜けると、この区間のハイライト、十分である。
十分駅

◆台湾のノスタルジア
いつのことだったか忘れたが、たしかカレンダーで見たものだったと思う。
青い気動車が、どこかの田舎町の市場を走っているという写真だった。
車輌も街も、どこか日本のようで日本ではない。それが台湾であることは、キャプションからわかったが 平渓線の十分であると知ったのは、随分あとのことだった。
それだけ印象の強い場所だったので、今回、迷わずに行程に組み入れた。
十分 十分

十分駅の手前 約200mが件の区間である。線路の両脇の商店が建ち並び、まるで路面電車の様である。
しかし、かつて見た市場のような活気はなく、鄙びた田舎町がなんとか観光で行きようとしている姿がそこにはあった。

よく見てみると、土産物屋が多いことに気付く。
一方で、昔ながらの佇まいの八百屋や雑貨屋は、どことなく暇そう。
店の主と近所の人が話を交わす、台湾のどこにでもある風景だ。

十分 十分 十分
そんな中を国鉄規格のディーゼルカーが貫いて行く姿を写真に収め、漸く昼飯となった。
商店の店で頼んだのはエビチャーハン。よく考えれば台湾で一度も炒飯を食べていなかった。
例によって、メニューを紙に書き出して主人に注文した。60元(=205円)である。

店の片隅で食べていると、その主人が、「Japanese?」と聞いてきた。
「Yes」と答えると、やおらテーブルの反対側に座り、紙に地図を書き出した。
どうやら、十分大瀑の位置を説明しているようである。
折角説明してもらったのに悪いなあ・・と思いながらも、サンキューと堀内孝雄になって答えた。
十分
●十分の駅にて。通票閉塞方式である。

十分から列車に再び乗り、終点を目指す。
途中、平渓駅附近は、V字の谷沿いの斜面に、老街(旧市街)が建つ趣のある街だった。
だが、時間の関係で、降りられないのが残念である。

そして、終点の菁桐へ。列車は着発で直ぐに降り返してしまうので、1本段落としした。

菁桐 菁桐
日本時代のままの駅舎は美しく整備されているが無人駅。
変わりに、隣に台北駅と同じ鉄道グッズ店があり、旧鉄道員用の施設は炭鉱の記念館になっている。
駅前の商店は昔から変わっていないような感じだ。

しかし整備されているのは、この程度のようだ。
駅裏には炭鉱跡は、一応説明看板はある(しかも日本語付)ものの、見学施設としては不充分な状態。
特に、積み出し施設の上側にも行けるだが、柵の類はなく危険な状態だった。
それでも廃墟となっていた施設の一部分だけ整備して喫茶店として利用しているのは凄まじい。
菁桐

平渓線・・とりわけ十分に行けた事に満足した。
そして、台湾の近代史の中で、郷愁の感情を満たす存在であることを感じた。
ただ、私は、もうちょっと沿線が普段着のまま活気に溢れていて欲しかった。
何故、青いディーゼルカーが現役の時に来なかったのか?と、少しばかり後悔していた。
菁桐
●菁桐をゆくDRC1018

◆残務処理
瑞芳から、台北へ戻る。台湾一周のラストランナーは東部幹線のDC自強号である。
車内はほぼ満席だったが、幸いにして1席見つける事が出来た。

隣には原住民族と思しきおばあさんが乗っていた。
なにか、質問があるのか何度か私に話かけてきたが、当然ながら理解できない。
「我是日本人」といっても通用しないので、思いきって「日本人です」と言ったが、日本語もダメだった。
結局、台湾を一周して日本語がわかる人は台東の旅社のおじいさんだけだった。
うーん、来るのが遅すぎたか・・。

そういえば、前に座っている人の荷物は黒と赤が鮮やかな織物だ。
タイヤル族なのだろうか? 顔つきも異なる。
西部幹線はどこを乗っても東アジアな人たちばかりだったが、
東部幹線は一転、ニューギニア系の顔立ちが目に付く。
島の東と西で、こんなにも強い人種のコントラストがあるとは思わなかった。

台北から、捷運に乗り再び公館へ。
初日に行った台湾的店で、鉄本を買うためである。
そして学生街なので、普通の本屋も充実している。ここで、念願の地図を買った。
一気に腕が抜けそうなほど荷が重くなる。

で、夕食は・・・と思っていると吉野屋があった。
海外ではどんな味なのだろう? 興味が涌いたので入ってみた。
しかしメニューの構成が日本とはまるで違う。
なんとか牛丼を頼んだが、味が微妙〜に異なる。
その上、紅茶と漬物がセットで、これまた微妙〜である。

なお、値段は日本で定食を頼んだのとあまり変わらない感じだ。
これまで食べた、どの夕食よりも高い。
台湾では外資系ファーストフードは決して安い食べ物ではない。

捷運に再び乗り、向かったのは中山。
結局、初日と同じホテルに泊まることにした。

公館のコンビニで買った台湾の「地ビール」を開けた。
一週間を思い出しながら飲み出したが、疲労はピーク。
飲んだ途端、寝てしまった。

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