なぜ600・700形なのか・・・コトデンの形式に関する推測


 600も700も鉄道車両の形式としてはごくありふれたもので、特別なものではないように感じる。しかし、コトデンの歴史を顧みたとき、この形式はそれまでの慣例を打ち破るものであった。一方、「琴電の車番はデタラメで法則などない」という声もある。確かに2桁・3桁・4桁が入り交じり、それも入線順に付番していない(ように見える)ことから、そのように思うのは仕方がないであろう。しかし、入線した順番に追ってゆくと法則性があることがわかる。
 ここでは、そのことを確認してみたい。なお、これは筆者の独自研究であり公式見解ではないことをお断りしておく。

・合併時
 コトデンは1943年11月11日に琴平電鉄(琴平線)、讃岐電鉄(←四国水力電気←東讃電気軌道、志度線)、高松電気軌道(長尾線)の3社が合併して成立した。このときに3社から引き継がれた車両は以下のものである。

 ・琴平電鉄 13両
 1000形 100、110、120、130、140
 3000形 300、315、325、335、345
 5000形 500、510、520

 ・讃岐電鉄 23両
 1形  1〜12  (木造単車)
 変1形 13〜16 (木造単車)
 50形 51〜56 (鋼製ボギー車)
 100形 101 (散水車)

 ・高松電気軌道 11両
 1形  1〜9 (木造単車)
 貨1形 1、2 (木造貨電)

琴平電鉄の形式は4桁であったが、車番は1桁少ない3桁で2桁目が増えてゆく独特の法則が用いられていた。
一方、讃岐電鉄と高松電軌はごく普通の1桁または2桁の車番であった。重複する車番があったが、高松電軌の1形を20形21〜29、貨1形を31、32に改番し回避した。その後、101は1945年の高松空襲で焼失している(他にも20形4両、30形1両を焼失)。

この結果、
 長尾・志度線が2桁形式2桁車番(01〜99)
 琴平線が4桁形式3桁車番(100〜)

という法則が出来上がる。
そして、戦後の混乱期以降、琴電では各社から車両を導入し形式が一気に増えてゆく。
なお、コトデンでは40番台・400番台・1040番台等は、忌み番として使用しない。

・長尾・志度線の戦後
 長尾線・志度線では戦後の混乱期に東急(京浜)および山陽電鉄から合計3形式の車両を導入する。しかし、これにより90番台以外の形式を使い果たしてしまう。以降は車番の整理を行い、空いた番号・形式の再利用が何度も行われることになる。詳しくは以下の図をご覧頂きたい。



同じ形式・車番が何度も登場し、また無理矢理にでも60・70形に編入して形式の増加を抑えたことがわかる。注意点として以下のことがあげられる。
・もと近鉄の3代目20形は当初志度線に配置の予定であったが、高出力の主電動機を装備していることから急遽琴平線の配置になった。
・もと阪神の2代目50形が55〜57になったのは、入線時に初代50形の廃車手続きが完了していなかったためである。
 同様のことは、もと京浜急行の3代目30形が入線した当時、もと阪神の2代目30形の廃車が完了しておらず、75〜76が振られている。
・30形は2代目・3代目ともに10両を超えたが、40番台を使用しないため、20番台へと遡って付番されている。

なお、琴平線から転属車両は、志度・長尾線の既存形式に編入されたものを除き、琴平線の方法を踏襲している。

・琴平線の戦後
 まずは、琴平電鉄の法則にしたがった、主に固定編成を組まない各車両を示す。

 琴平電鉄の導入車は理由不詳だが、形式の千の位は全車奇数だった。戦後混乱期に導入された車両もこれを踏襲したが、4桁形式3桁番号(7000形、9000形)はすぐに埋まり、5桁形式4桁番号(11000形、13000形、15000形)になってしまう。
 さすがにインフレだったのか、1950年代以降に導入された車両は千の位が偶数の形式を割り当てられている(2000形、6000形、8000形)。これも1960年代前半には埋まってしまったので、その後に入線した車両には車番を50で分割し、車番と同じ形式を割り当てている(750形、850形、950形)。700、800、900番台を分割したのは、700番台が譲渡車で鋼製の電動車、800・900番台が同じく制御車になるように考慮したのであろう。1975年に導入されたもと山形交通の車両が最後の琴平線3桁番号車であるが、これらは全て電動車であったため700番台を更に細分化して割り当てた(740形、780形)。
 1983年に琴平線所属の車番が700番台の鋼製電動車は電装解除されて長尾・志度線に転属するが、形式・番号は琴平線の方法で行われ、800番台を細分化して形式を割り当てている(860形、880形、890形)。先に850が同線に転属していたことも影響したのだろう。

以下に注意を要する点を記す。
・琴平電鉄の導入車の車番は十の位が0からはじまるが、戦後に入線した車両は1からはじまる。
・山陽電鉄の譲渡車は、もと東武(総武鉄道)の譲渡車を追って920が付番されている。これは、もと東武の7000・9000と編成を組む制御車であったのが理由だと思われる。7000・9000は自動加速・自動制動で、手動加速・直通制動の琴平線の在来車とは1966年に改造されるまで併結が不可能であった。
・8000のうち820は1964年に方向転換の上で電装された。このときに車番はそのままで、新形式の820形になった(上表※1)。


つづいて2両固定編成用の各車番を示す。

 1952年に琴平線に2両固定編成の新車が入線した。車番は新たな基準で1001〜1002が振られた。ただし形式が番号より1桁多い琴平線の方法は踏襲され10000形になった。続いて1958年に国鉄から2両を購入し固定編成としたが、車番は1201〜1202、形式は12000になった。この時点で11000形の廃車が完了していなかったため、この車番・形式になったと思われる。
 1955年に車体だけが完成していた2両は1960年になってようやく竣工したが、10000形の増備車という意味があったのか車番は1011〜1012、形式は1010とオーソドックスなものになった。これ以降は、1000番台で新形式ごとに十の位が増えていく順当な方式になっている(1020形、1050形、1060形)。1060形は両運転台車であるが、先に入線した1050と同系の車体であるため固定編成と同じ付番方法となったのだろう。
 ところが、1980年代初頭に入った各車は、それまでの空番もしくは追番が割り当てられ、形式も中途半端な値(1013形、1053形、1063形)になっている。いたずらに車番を消費したくないといったことが読み取れるものの、その理由は不詳である。
 1984年からは現在に続く京浜急行の車両の導入が続く。ここで、もとの通り十の位が増える方式となった(1070形、1080形)。1080形は12両が入線し1090番台も一部を使用したことから、その次に入線したもと京王は1100形になった。
 さて、新生ことでんになり京浜急行の車両が再び入線するが、ここから百の位が増える方式となり1200、1300形となった。次に入線する車両は、これまでの慣例に従い1400番台を飛ばして1500番台になるのかが注目される。

・600・700・800形
 600・700・800形は、これまで見てきたどの法則にも当てはまらないものであることが、お判りいただけたと思う。
従来の法則にしたがえば、長尾・志度線用で空番となっていた10・50・90番台を割り当てるところだが、志度線と長尾線で番台を区分することはできず無理がある。一方で3桁番号車は当時600番台が空いており、続く700番台も739までは使用されていなかったので好都合と判定されたと思う。かくして、600形・700形となった。そして電装解除で800が登場する頃には、3桁番号は1000・3000・5000形しか残っておらず、800番台を振ることになんの支障もなかった。もし次に志度線に新規導入の車両がある場合も、3桁形式・3桁番号になると思われる。なお610は2代目の車番である。

・履歴
2023.7.17 作製


↑ことでん600・700・800の備忘録 表紙へ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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