買収国電 概要

買収国電略史

 買収国電―社型国電ともいう―とはそもそも何であるのか。それを知るためには、日本の国有鉄道(以下国鉄という)の歴史を顧みることが必要である。

 国鉄は明治の開業以降、路線網の拡大を自ら行っていたが、それ以上に私鉄も路線の拡大を行っていた。このため、国は1906(明治39)年に鉄道国有法を公布し、日本鉄道(東北線、常磐線など)や関西鉄道(関西線、片町線、和歌山線など)など主要17社を国有化した。その後も国有法は存在し、大正中期以降各地で買収が行われていった。
 買収対象となるのは線路や駅といった土木施設だけでなく、車両も含まれていた。つまり、私鉄の車両が国鉄の車両になったのである。そして後年、趣味的にはこれらに対して買収車という呼称を行う。ここで思い出されるのは、甲武鉄道である。同社は1904(明治37)年に飯田町〜中野間を電化し電車を走らせていた。これが買収により国鉄が保有する最初の電車になった。従って、この甲武鉄道こそが最初の「買収国電」になるが、他の買収国電が成立した年代とはかけ離れているため通常は含めない。買収国電は、昭和期に買収されたものを指すのが一般的である。

 その観点で初の買収国電は、1936(昭和11)年に買収され可部線横川〜可部間になった広浜鉄道の車両である。続いて1937(昭和12)年に買収され大糸線松本〜信濃大町間になった信濃鉄道の車両、そして1938(昭和13)年から国鉄が借り上げ1941(昭和16)年に買収、身延線となった富士身延鉄道の車両が買収国電になる。これら3社の車両はモハ90001やモハ20001といった数字2桁の形式・記号+番号5桁による制式のルールにのっとった附番が行われた。なお、同じ時期には佐久鉄道(小海線小諸〜小海)、北九州鉄道(筑肥線)、芸備鉄道(芸備線)などが買収され、より多くの事業者に普及していたガソリンカー(気動車)が国鉄車になっている。こちらは後に買収気動車と呼ばれるようになる。

 さて、日本は1937年の盧溝橋事件(支那事変)から1941年の日米開戦へと戦争を拡大して行く。このような状況下において各産業は国家による強制的な指導を受けることになる。鉄道を含む交通分野では1940(昭和15)年に陸運統制令が公布されたが、これに基づき各地で事業者同士が合併(いわゆる戦時統合)、また資材を転用するため善光寺白馬電鉄や出石鉄道などが不要不急線に指定され休止になった。さらに戦争の激化に伴い、国による運行が望ましい私鉄路線を強制的に買収することになった。これが俗に「戦時買収私鉄」といわれるものである。買収は2回に分けて決定され、1943〜1944年に実施された。
 買収理由は様々で、貨物(とりわけ石炭・セメント等の物資)輸送の強化、軍需工場への工員輸送の強化、迂回路の確保と言ったことがあげられている。しかし、事前交渉等は特になく買収費用は戦時公債で賄われるなど極めて事業者側に不利なものであった。従って「不本意ながら買収に応じた」という事業者もあり、これは南武鉄道や南海鉄道などが戦後、路線返還運動を起こし1949年と1951年には国会に払い下げ法案が提出されたことに現れている※。

 戦時買収私鉄の車両は、混乱期のため戦前の被買収車両の様に国鉄式の形式番号が付番されず、私鉄時代の番号のまま使用を続けた。後に改造による改番もあったが、それらは他の車両との兼ね合いで決めただけで特にルールがあったわけではない。また、メーカーに発注・製造中に買収され国鉄になってから入線したものもあり、これらは私鉄籍を持たない「買収車」になった。

 だが、買収車は国鉄設計車とはあらゆる点が異なる継子であった。また物資不足の時代での酷使もあり、1940年代後半には木造車、鋼製車ともに廃車になるものが多数発生した。これらの多くは深刻な車両不足をきたしていた私鉄各社に入線している。また、国鉄車の入線が可能になった路線を中心に買収車が他の買収線に異動している。特に山陽地区の各線(宇部・小野田線、可部線、福塩線)には関東地区の各線(青梅線、南武線、鶴見線)の車両が大量に転入している。
 こうした中で私鉄時代の番号のままで車両を使用していると、都合の悪いことも発生するようになる。例えば宇部線には南武と鶴見の同一番号車が転入していた。そこで、1953年6月の国電一斉改番(この時、たとえばモハ30、31、50と云った17m級国電がモハ11に統一された)に際し、買収国電は国鉄制式番号をつけていた旧広浜、信濃、身延の車両や、木造国電を含め「標準設計以外の車両」として数字4桁の形式・車番に整理された。これで正式に国鉄車籍に編入されたと言えよう。なお、この付番基準については「1953年6月1日実施 4桁番号について」を参照していただきたい。

 昭和30年代に入ると、国鉄にも新性能車が登場する。これに応じて1959年に新性能車の3桁形式化や、制御電動車の呼称を「クモハ」と改称することを主とした改正が行なわれた。この時、車両数がまとまっていたもと阪和電鉄→南海山手線の旅客車は、旧型国電とおなじ5桁ナンバーのクモハ20とクハ25(いわゆる3代目20系)に再改番されている。
 このころには、阪和車以外の買収国電は、国鉄の電化路線網から隔離された仙石線、福塩線(750V電化)、可部線(同)、富山港線(600V電化)のみになる。その他は順次廃車になったが工場の入替車として使用されたり、救援車に改造されるものも出現した。
その後、1967年の富山港線の昇圧、1968年の阪和車の引退を最後に営業用買収国電は全車廃車になった。なお、救援車に改造された車両は1985年まで残存していた。

 一方、4桁番号化以降も多くの車輛が地方私鉄に払い下げられている。このとき、廃車後直ちに譲渡したものより、工場などに保管された後に譲渡されたものが多い。だが、1960年代の地方私鉄大量廃線、1970年代以降の大手私鉄中古車導入で続々と廃車になって行った。


※戦時買収の際に対象となったのは鉄道施設のみで、会社の解散はできなかった。


(2020.7.18 画面修正)


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