買収国電はどのように使われたのか

 買収国電は国鉄買収後、どのように使われたのだろうか。
まとまった車両数があって買収後も元の路線にとどまった阪和電鉄→南海山手線の車両以外についてみてゆきたい。

 各車両の廃車・改造の日付に関しては下記の文献を参照した。
 ・(1) 沢柳健一・高砂雍郎 編 『決定版 旧型国電車両台帳』 ジェイ・アール・アール 1997年
 
 また車両の転属、諸元、改造などについては、下記の各文献を参照した。
 ・(2) 鉄道ピクトリアル編集部「買収国電を探る 鶴見線」鉄道ピクトリアル22号(1953年5月) ※
 ・(3) 沢柳健一「買収国電を探る 青梅線」鉄道ピクトリアル23号(1953年6月) ※
 ・(4) 瀬古龍雄「買収国電を探る 仙石線」鉄道ピクトリアル24号(1953年7月) ※
 ・(5) 中川浩一「買収国電を探る 南武線」鉄道ピクトリアル25号(1953年8月) ※
 ・(6) 小林宇一郎「買収国電を探る 富山港線」鉄道ピクトリアル26号(1953年9月) ※
 ・(7) 越智昭「買収国電を探る 可部線」鉄道ピクトリアル28号(1953年11月) ※
 ・(8) 越智昭「買収国電を探る 福塩線」鉄道ピクトリアル30号(1954年1月) ※
 ・(9) 中川浩一・越智昭「買収国電を探る 宇部・小野田線」鉄道ピクトリアル31号(1954年2月) ※
 ・(10) 小林宇一郎「買収国電を探る 飯田線」鉄道ピクトリアル32号(1954年3月) ※
 ・(11) 沢柳健一「買収国電を探る 飯田線」鉄道ピクトリアル33号(1954年4月) ※
 ・(12) 中央大学鉄道研究会「北陸のローカル線」鉄道ピクトリアル214号(1968年9月)
 ・(13) 沢柳健一「鶴見線で活躍した旧型国電」鉄道ピクトリアル472号(1986年12月)
 ・(14) 沢柳健一「南武、青梅、五日市線 よもやま話」鉄道ピクトリアル568号(1992年12月)
 ・(15) 「青梅電気鉄道 南武鉄道時代に活躍した車両のその後」鉄道ピクトリアル568号(1992年12月)
 ・(16) 沢柳健一「昔日の身延線あれこれ」鉄道ピクトリアル617号(1996年2月)
 ・(17) 和久田康雄「1950年前後の可部線」鉄道ピクトリアル645号(1997年11月)
 ・(18) 沢柳健一「買収・旧型国電が活躍当時の富山港線」鉄道ピクトリアル626号(1996年9月)
 ・(19) 田尻弘行・阿部一紀・亀井秀夫「買収国電(社形の電車たち)」鉄道ピクトリアル2000年4月臨時増刊
 ・(20) 佐竹保雄・佐竹晁『私鉄買収国電』ネコパブリッシング 2002年

 ※「鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション17 国電復興時代」に収録。

転配属と廃車(前編)
 阪和以外の買収国電は、総計258両あった(宇部電気鉄道→宇部鉄道モハ1・モハ2は除く)。
このうち4両は、買収後の1946年に入線したもので、258両が同時に在籍していたことはない。

内訳は以下の表のとおりである。
被買収社名車両数備考
広浜鉄道9
信濃鉄道10
富士身延鉄道27
宇部鉄道144両は宇部電気鉄道の引継車
富山地方鉄道富岩線4
鶴見臨港鉄道41
豊川鉄道20
鳳来寺鉄道2
三信鉄道9
伊那電気鉄道29
南武鉄道41
青梅電気鉄道24
宮城電気鉄道284両は国鉄買収後に竣工

これらは次のように処理され、旅客車としては1968年度までに淘汰された。

事由車両数備考
戦災廃車16
事故廃車11
名義上他の車両に改造3いずれも事故車
救援車・客車などに改造28旅客客車:4、事業用客車:12、救援電車:10、交流電車:2
廃車後車体流用1
その他廃車199

淘汰時の鉄道管理局別統計
年度仙台東京長野名古屋
→静岡
名古屋
→金沢
岡山広島
→中国
総計備考
廃車 廃車 改造廃車 廃車 改造廃車 改造廃車 改造廃車 改造廃車 うち
戦災
事故
改造合計 
194522(2)02全て事故車
19467916(16)016全て戦災車
19472202
19482314235(6)439
194933606
19506217(3)29
195112271417017
195233452314620改造のうち3両は名義上
195331043101020廃車後1両は車体を流用
1954154515015
19551661124024
1956251808
195769222117522
195821221117118
195913111527
196021213廃車はもと仙台と静岡の車両
196122404
19621101
196354909
19641101
1965161808
19663303
1967000
19684404
総計24444104618422134483227(24)31258

出身別統計
年度広浜信濃身延宇部富岩鶴見豊川鳳来寺三信伊那南武青梅宮城
廃車 廃車 廃車 改造廃車 改造廃車 廃車 改造廃車 改造廃車 廃車 改造廃車 改造廃車 改造廃車 改造廃車 
194511
194663241
19472
194828121142
1949312
195031212
19512451221
195232221433
19533714311
195452224
19551664322
1956121211
19579133213
1958721152
1959112111
1960111
196122
19621
1963225
19641
1965251
196621
1967
196813
総計910207122435618228121840120428

なお、その他廃車199両のうち約6割にあたる122両が私鉄などに譲渡された(うち2両は再起せず、他に衝突事故車3両が譲渡)。
それでは、これらが国鉄買収後、どのように使われたのかを時系列的に見てゆきたい。


1.事故車・戦災車の発生
 買収国電は、当初は買収された路線で引き続き使用された。これは戦前期に買収された3社(広浜、信濃、身延)についても同じである。初の廃車は1945年度で、三信車と伊那車が1両づつである。これは1945年2月17日に飯田線三河槇原〜三河河合で発生した転落事故によるものである。その後、空襲の激化により戦災車が発生。戦後、1946年11月28日にまとめて廃車処理がなされた。その内訳は首都圏の空襲による南武車・鶴見車・青梅車の7両、宇部の空襲による宇部車が3両、また広島への原爆投下による広浜車が6両である。


2.浅野系電鉄車の疲弊と東鉄管内から買収車の淘汰
 東京鉄道管理局(東鉄)管内では浅野財閥系の鶴見臨港鉄道(鶴見線)、南武鉄道(南武線)、青梅電気鉄道(青梅線)が買収され、合計106両が買収国電になった。しかし、その後の状況は買収各線の中でも、特に悲惨な状態であった。当時から国電が多数配置されていた東京地区であり、真っ先に買収車の淘汰に進むことになる。

 まず、青梅線であるが買収車は制御器や主電動機の取付方式が国鉄車と互換性が無く、職員が退職していたことも重なり、特に保守に支障をきたした。さらに、衝突事故が頻発したこともあり多くの車両が使用不能な状態に陥る。これでも特に問題がなかったのは、戦前から国電が乗り入れており使用車種の制約を受けなかったためである。一部は五日市線の客車に転用。また東急井の頭線など私鉄への応援、南武線に転属したものもある。

 鶴見線は、買収後すぐに木造の制式車が入線した程度であったが、空襲により車両の被害が発生したため、1948年5月に昇圧を行い17m級鋼製の制式車に全て置き換えられた。

 そして、南武線は建築限界の関係で制式車が1947年10月まで入線することができなかった。このため、買収車は酷使により疲弊。小型車は多くが休車になった。

 この結果、1948年度には東鉄局管内で計31両が廃車になった。内訳は青梅車が13両で最も多い。鶴見車は小型車と木造車、それに買収後ほぼ使われなかった軌道線からの転用車2両の合計9両、南武車は小型車ばかり9両である。なお、青梅車のうち5両が木製のほかは鋼製車である。このほか五日市線で使用していた4両が、正式に客車に編入された。
 この時点で鶴見線・青梅線は買収車は全て淘汰された。南武線のみ遅れたが、それでも1951年までに淘汰された。なお、南武車が一時期的に鶴見線に転属しているという記述があるが、これは南武線の浜川崎支線が一時期的に鶴見線と同じ管轄になったのが理由の模様である。


3.広域転配と木造車の淘汰
 戦前に買収された各線のみならず、戦時買収線も輸送力増強を目的に多くの路線で木造車のモハ1系を中心に国鉄制式車が転属している。その流れの中で買収国電が他の買収線に転属線に転属する事例が出てくる。
 終戦後、まず1945年11〜12月に鶴見車のうち木造車(モハ1系等の再買収車)3両が富山港線へ、鋼製車2両が可部線に転出した。以降も鶴見車→可部線(4両)、伊那車→富山港線(4両)、身延車→飯田線伊那側(?両)、宇部車→仙石線(2両)と約20両の転属事例が続いたが、大々的に行われるのは上述の東鉄管内からの撤退以降である。

それでは、1949年頃の東鉄以外の買収線は如何なる車両状況であったのだろうか。
まず国鉄制式車の入線は以下の通りである。
状況路線
17m級鋼製車が入線大糸線(1946年)、仙石線(1947年)、身延線(1944年)
飯田線豊橋(1944年※)、宇部線(1947年?)
木造車(主にモハ1)が入線
(再買収車を含む)
富山港線(1944年)、福塩線(1935年)、可部線(1939年)
・カッコ内は転属年。※西豊川支線で海軍工廠への工員輸送が主なもので、本格的な配置は1947年以降

一方施設の面で架線電圧が1500V未満であったのは以下のとおりである。
路線電圧備考
飯田線天竜峡以北1200旧・伊那電気鉄道。複電圧車で1500V電化の天竜峡以南と直通
福塩線750
可部線7501948年10月1日 600Vから昇圧
小野田線600宇部鉄道のうち旧・宇部電気鉄道の区間
富山港線600

 買収車の転属先は、主に架線電圧が1500V未満であること、または木造車が多く配置されていた路線が対象となった。すなわち、飯田線伊那松島、富山港線、福塩線、可部線である。また宇部線もその対象になったのは、小野田線電化区間の昇圧(1950年3月1日)と非電化区間の電化(1950年8月10日)で多くの車両が必要になったからだと思われる。
 一方で、転属する車両は鋼製車が大半で、木造車は廃車もしくは事業用車に転用される場合が多かった。結果的に1951〜1953年にかけて毎年20両前後のペースで淘汰も進んだ。
 以下、1948〜1952年度の各路線別の動向を記す(なお、これ以降、福塩、可部、宇部・小野田の3線群をまとめて山陽3線区とよぶ)。
転属に際しては各社の装備する機器も関係しているが、これは別項に譲る。
また山陽3線区内での車両のやり取りは煩雑なので、詳細の記述は避ける。

・浅野系電鉄車
 青梅車は1949年度の残存は7両であったが全て電装解除されていた。6両が身延線・飯田線(豊川)に、1両が山陽3線区に転出するが、身延線・飯田線に転出した車両も1951年には大半が山陽3線区に再転出した。
 鶴見車は1949年度の残存は31両で、全車両が転出済み。静岡鉄道管理局内に1両、富山港線に6両のほかは、全て山陽3線区に転出した。1951年には富山港線から山陽3線区に3両が再転出した。なお鶴見車には国鉄モハ1の再買収車が多く含まれているが、転属先でも1951年度までに廃車になった(うち1両は他の車両に改造扱い)。
 南武車は1948〜1949年度に福塩線と身延線に4両が転属。1950〜51年度に2両が廃車になったほかは山陽3線区に転出した。身延線の2両も1951年度に山陽3線区に転属した(なお1両は山陽3線区への転属前に飯田線豊川に転属しているが、これは豊川工場での更新が目的であった模様※)。

 ※ 文献(11)による。
 
・宮城車(仙石線)
他の路線への転属は少なく、1951〜1953年に木造車2両と鋼製車5両が富山港線または山陽3線区に転属。ただし鋼製車のうち1両は仙石線に戻った。木造車は1948年度に2両が廃車、その後1951〜52年度にも4両が廃車になったが、結局何両か残った。
仙石線に転入した他の買収車も少ない。一時期的に宇部車2両が在籍したほかは、伊那車3両があるのみである。

・信濃車(大糸線)
他の路線には転属していない。1951年度に2両が廃車になったが、本格的な廃車はそのあとである。
大糸線には他の買収車の転入もなかった。この2つが揃った事例は阪和線以外では唯一である。

・身延車(身延線)
 1947年頃から順次飯田線(伊那松島)に転属。鋼製車は1950年度まで全て転属した。木造車(サハ26)も多くが転属したようだが詳細は不明、1950年度に廃車もしくは1953年度に客車(工場の職員輸送用)に用途変更された。
身延線には身延車が転出する一方で、浅野系電鉄車が数両転入したが、これらも1950年度には山陽3線区に転属した。同年度に買収車の淘汰が完了した。

・豊川車・鳳来寺車(飯田線豊川区)
木造車は1949〜51年度に廃車または救援客車に改造。鋼製車は全車1951〜1952年に山陽3線区に転属した。
飯田線豊川区には浅野系電鉄車が若干転入したが、これらも山陽3線区もしくは飯田線伊那松島区に転出している。
これらの結果、1951年度に買収車の淘汰が完了した。

・三信車(飯田線中部天竜区)
木造車は1952年に廃車。鋼製車は1両が事故廃車になったが、他は電装解除化されたものの飯田線に残った。ただし配置は伊那松島になった。なお、三信車は一時期的に身延線に在籍していたと読める記述があるが、詳細不明※。

 ※文献(11)にそのような記述があるが(16)には記述がない。

・伊那車(飯田線伊那松島区)
電動車は富山港線へ断続的に転属。一部は福塩線を経由したが、最終的には富山港線に全て転属した。木造付随車は大半が飯田線に留まり1953年までに順次廃車もしくは救援車に改造された。一方、鋼製付随車のうち3両は仙石線に転属した。
これらの一方で伊那松島区には身延車が転入し主力となる。他に浅野系電鉄車が少数転入した。また1951年度以降は国鉄制式車が転入する。

・富岩車(富山港線)
もともと4両(客車2両は除く)と少なく、転属は無かった。木造車は1948年度に、鋼製車は改番直前の1953年3月に廃車になった。
富山港線は伊那車と宮城車、浅野系電鉄車が転入したが、浅野系電鉄車は後に山陽3線区に転出する。
特に伊那車は断続的に転入し、伊那車同士での置き換えも発生した。

・福塩線
浅野系電鉄車が大量に転入。他に伊那車が2両ほど入ったが、比較的短期で富山港線に転出した。
ほかに豊川車が転入。宇部線から再転属した車両を合わせて多数が揃う。

・広浜車(可部線)
原爆の被害を受けずに残ったのは3両のみ。転属しなかったが、改番直前の1953年3月に廃車になった。
可部線には浅野系電鉄車と宇部車が大量に転入した。

・宇部車(宇部線)
旧・宇部電鉄区間の1500V昇圧に伴い、1949年度末にもと宇部電の鋼製車3両が廃車。1両だけ電装解除の上で福塩線に転属した。
1947〜1949年に一時期的に仙石線に転属した2両を含め、1950〜51年に全車が山陽3線区の他の路線(可部線また福塩線)に転属した。
一方で、浅野系各車と豊川車が転入しているが、豊川車の大半はのちに福塩線に転出した。


結果的に
・浅野系電鉄車と豊川車(鋼製車)が山陽3線区、伊那車(電動車のみ)が富山港線、身延車が飯田線にそれぞれ大多数が転属。
・宇部車は山陽3線区内で転属。
・信濃車、三信車、および宮城車の大半は元の路線に留まる。
・広浜車、富岩車は淘汰。
となった。
また、富山港線、福塩線、可部線に配置されていた木造の制式車も全てが廃車になった。

 1952年度までに救援車・客車に改造されたものが19、事故車で他の車両に名義を譲ったものが3、廃車は99両で計121両である。廃車のち戦災車が16、事故車が11で、そのほかが72両である。この72両のうち鋼製車が31両、木造車41両である。
なお、救援客車・事業用客車への改造は全てが静岡鉄道管理局か金沢鉄道管理局で廃車になった車両である(客車からの再改造は除く)。


(2020.7.12 公開)


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