買収国電はどのように使われたのか

転配属と廃車(後編)

4.1953年改番〜1960年の動き
 1953年6月1日、国鉄の電車は形式の整理が実施され、買収車にも「標準設計以外の車両」用の4桁の番号が振られた。 この時点で残っていた車両は総数の5割強にあたる137両である。各線の配置状況は以下の通りである。

管理局仙台長野静岡金沢岡山広島合計
路線仙石線
 19両
大糸線
 8両
飯田線伊那松島
 26両
富山港線
 13両
福塩線
 22両
可部線
 24両
宇部線
 25両
信濃88
身延1717
宇部268
鶴見149923
豊川9211
鳳来寺11
三信55
伊那321015
南武441321
青梅12216
宮城163322
宮城モハ2320信濃モハ1100身延モハ1200伊那モハ1900宇部クハ5302宇部モハ1300鶴見クハ5510
宮城モハ2321信濃モハ1101身延モハ1201伊那モハ1901宇部クハ5310宇部モハ1301鶴見クハ5511
宮城モハ2322信濃モハ1102身延モハ1202伊那モハ1910鶴見モハ1510宇部モハ1302鶴見クハ5550
宮城モハ2323信濃モハ1103身延モハ1203伊那モハ1920鶴見モハ1520宇部モハ1310鶴見クハ5551
宮城モハ2324信濃モハユニ3100身延モハ1204伊那モハ1921鶴見モハ1521宇部クハ5300鶴見クハ5552
宮城モハ2325信濃クハ5100身延モハ1205伊那モハ1922鶴見モハ1522宇部クハ5301鶴見クハ5520
宮城モハ2327信濃クハ5101身延モハ1206伊那モハ1923豊川モハ1600鶴見モハ1500鶴見クハ5521
宮城モハ2328信濃クハ5102身延モハ1207伊那モハ1924豊川モハ1601鶴見モハ1501鶴見クハ5530
宮城モハ2329身延モハ1208伊那クハ5910豊川モハ1610鶴見モハ1502鶴見クハ5531
宮城モハ2330身延モハ1209伊那クハ5920豊川モハ1611鶴見モハ1503豊川モハ1620
宮城クハ6310身延モハ1210宮城クハ6300豊川モハ1612鶴見モハ1504豊川モハ1621
宮城クハ6311身延クハニ7200宮城クハ6330鳳来寺モハ1700鶴見モハ1505南武モハ2000
宮城クハ6321身延クハニ7201宮城クハニ7301豊川クハ5600鶴見クハ5501南武モハ2001
宮城クハニ7300身延クハニ7202豊川クハ5601鶴見クハ5502南武モハ2002
宮城クハニ7310身延クハニ7203豊川クハ5610鶴見クハ5540南武モハ2003
宮城クハニ7311身延クハニ7210豊川クハ5611南武クハ6000南武モハ2004
伊那サハニ7900身延クハニ7211南武モハ2020南武クハ6001南武モハ2005
伊那サハニ7901鶴見クハ5500南武モハ2021南武クハ6002南武モハ2006
伊那サハニ7902三信クハ5800南武クハ6021南武クハ6003南武モハ2007
三信クハ5801南武クハ6020青梅クハ6100南武モハ2008
三信クハ5802青梅クハ6110青梅クハ6101南武クハ6010
三信クハ5803青梅クハ6120宮城クハ6320南武クハ6011
三信クハ5804宮城モハ2310南武クハ6012
伊那クハ5900宮城モハ2326南武クハ6013
伊那クハ5901青梅クハ6111
青梅クハ6112
 背景が水色の車両は木造車。
 配置先は文献(1)を参考にしたが、クハ5540とモハ1601は実際に配置されていた路線に基づき修正している。


 山陽3線区で半数以上の71両が在籍している。ただし生え抜きの車両は存在しておらず、これは富山港線も同じである。
また、単独では飯田線(伊那松島)が最も多いが、ここも大半は転属車で、生え抜きは伊那2両と三信5両である。
大糸線は生え抜きのみ8両、仙石線も生え抜きが16両と多い。
富山港線、福塩線、可部線は買収車のみで運用。他の線区は制式車も配置されていたが、運用は各線バラバラである。

 改番後も引き続き木造車の淘汰が行われた。改番時点で、仙石線に1両、富山港線に7両(伊那5、宮城2)、大糸線に8両が残存していたが、いずれも1953〜1954年度に全車廃車になった。これにより大糸線は買収車の淘汰が完了した。

 山陽3線区では、先ず1500V電化で17m級制式車が既に入線していた宇部線から整理が始まる。1955年度末には淘汰が完了したが、比較的車齢が若い車両が多いため、主に可部線に転属した。可部線では玉突きで全長16m未満の買収車(宇部、鶴見、南武、宮城)と車齢が旧い青梅車が淘汰の対象となり、1954年度までに富山港線に7両(宇部車:6、南武車:1)が転出した他は順次廃車となった。これ以降、山陽3線区→富山港線への転出という流れが出来上がる。1955年には宇部線から鶴見車1両、可部線から宮城車1両が転出した。

 続いて1955年度には福塩線にも17m級制式車が転入。1955〜56年に富山港線に5両(豊川車:2・鳳来寺車:1、南武車:2)が転出する。
これにより、同線の伊那車が全て淘汰された。

 残る可部線も1957年度に17m級制式車が転入。1957〜1958年にかけて富山港線に8両(南武車:5、鶴見車:3)が転出する(ほかに宇部線から南武車1両が転出=可部線からの転出した車両と同型)。これにより富山港線は1953年以降に山陽3線区から転入した車両の大半が淘汰された。短期間のうちに車両が入れ替わったことになる。なお富山港線から鳳来寺車1両を豊川工場、宮城車1両を幡生工場の入換車に転用した。

 この結果、山陽3線区では1955年度に宇部線・可部線で11両、福塩線で7両と大量の廃車が発生した。以降も少しづつ減らし制御車が若干残るのみとなる。なお、淘汰された車両のうち宇部車2両、南武車1両、鶴見車4両を救援車に改造、南武車1両を豊川工場の入換車に転用した。

 飯田線伊那松島区は1955年に1200Vから1500Vへの昇圧を実施。翌1956年度から買収車の淘汰がはじまり、1958年に完了した。これにより飯田線は全区で買収車の淘汰が完了した。なお、伊那車2両を交直流電車の試験車に改造した。
 仙石線も1955〜1959年に宮城車でも小型の車両と伊那車が全て淘汰されるなど11両が廃車なったが、山陽3線区に比べればスローペースだった。

 なお、仙石線の宮城車1両(クハ6310)と飯田線の鶴見車1両(クハ5500)が、東京鉄道管理局に転属後に廃車になっている。後者は救援車に改造予定だった模様※だが、前者については理由は不詳である。

※ 吉田明雄「買収国電抄」鉄道ピクトリアル112号(1960年11月)に、クエ9425として記載されている。


5.終焉
1960年度末時点での残存し旅客営業で使用されていた車両は27両であった。
仙石線
7両
富山港線
13両
福塩線
2両
可部線
5両
宮城クモハ2320宇部クモハ1310豊川クハ5610鶴見クハ5504
宮城クモハ2330鶴見クハ5501豊川クハ5611鶴見クハ5505
宮城クモハ2340鶴見クハ5502南武クハ6011
宮城クモハ2341鶴見クハ5506南武クハ6012
宮城クハ6340鶴見クハ5503南武クハ6013
宮城クハ6341南武クモハ2000
宮城クハ6342南武クモハ2003
南武クモハ2006
南武クモハ2007
南武クモハ2010
南武クモハ2011
南武クモハ2020
南武クモハ2021

 買収車のみで運行されていたのは富山港線のみである。
福塩線と可部線は制御車のみが残り、国鉄制式車と併結して使われていた。
仙石線は生え抜きの宮城車が残っていたが、国鉄車とは運用が分けられていた。うち4両は買収後に落成した車両である。

 他に工場の入換車として豊川工場に鳳来寺のクモハ1700、南武のクモハ2008、幡生工場に宮城のクモハ2320の3両が存在。また、交直流電車の試験車になった伊那車2両が旅客車に改装(クハ490-1、クハ490-11)されていた。

 山陽本線の電化区間が延伸されてゆくのに伴い、まず1961年8月に福塩線が昇圧(同年9月6日 倉敷〜三原電化)、続いて1962年4月に可部線が昇圧(同年5月12日 三原〜広島電化、10月1日 広島〜横川電化)された。両線の買収車はこのときに廃車になり、淘汰が完了した。
 仙石線も1961年度に2両が廃車、1963年度には残る5両も廃車になり、淘汰が完了した。

 残るのは富山港線であるが、1965年になって漸く17m級車制式車が転入し淘汰がはじまる。そして1967年3月30日に昇圧を実施、最後まで残った4両は年度が替わった1967年4月に廃車になった。これにより阪和車以外の全ての買収国電(旅客車)が淘汰された。

なお、豊川工場入換車は1964〜1965年、幡生工場入換車は1965年、交直流電車は1966年に廃車になった。


(2020.7.12 公開)



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