買収国電はどのように使われたのか

私鉄への譲渡

 阪和車以外の買収国電のうち、事故・戦災以外で廃車になった199両のうち約6割の122両が私鉄などに譲渡された。このほかに衝突事故を起こして休車中であった3両が譲渡された。既にどのような車両が譲渡されたのかについては様々な書籍で記されているが、個々の車両ではなくもっとマクロな視点での考察をしてみたい。

 なお、廃車後に国鉄で保管されたあとに譲渡、また譲渡先でも竣工に時間がかかったケースも散見される(最長で6年)。更に中間に車両メーカが挟まっている事例もある。従って、廃車年と私鉄に譲渡された年、私鉄で竣工した年は異なるが、ここでは単純化するため廃車年基準でまとめた。

 まず、鉄道管理局別の廃車車両と譲渡車両数の一覧を以下に示す。

仙台東京長野静岡金沢岡山広島総計
廃車譲渡譲渡率廃車譲渡譲渡率廃車譲渡譲渡率廃車譲渡譲渡率廃車譲渡譲渡率廃車譲渡譲渡率廃車譲渡譲渡率廃車譲渡解体譲渡率
1945
1946
194720.02020.0
19482150.0282485.722100.03227584.4
19493133.333100.064266.7
195040.04040.0
195110.022100.022100.07457.110.044100.01712570.6
195233100.03266.75480.033100.01412285.7
195322100.044100.03266.798188.9
195410.055100.04375.055100.01513286.7
195510.06350.06466.711654.524131154.2
195620.05360.010.083537.5
19576233.39666.72150.0179852.9
195820.01212100.022100.011100.01715288.2
195910.03133.310.051420.0
19602150.021150.0
196120.022100.042250.0
196211100.0110100.0
196350.04250.092722.2
196411100.0110100.0
196511100.060.010.081712.5
196630.03030.0
196700
196840.04040.0
合計24625.0342779.499100.0412765.9422150.013861.5392769.22021257761.9
 注:廃車には戦災車・事故車のうち譲渡された3両を除く24両と、廃車後他車に車体を流用された1両を計上していない。


 1953年6月1日の改番前に廃車なった99両のうち、事故車・戦災車を除いた車両数は72両。このうち譲渡された車両は52両(約72%)である。とくに鋼製車は31両が廃車になったが、解体されたのは南武車2両のみで、残り29両が譲渡された(うち2両再起せず、他に事故車3両を譲渡)。
 特に、1948年度に東京鉄道管理局で浅野系電鉄車31両が一斉廃車(うち6両が事故車)になったが、このうちの24両が譲渡された。なお1958年改番以前に鋼製車で事故以外の廃車が発生したのはこの時が21両と多く、残りは1951年度に南武車2両、1950年度に旧・宇部電気鉄道の昇圧で宇部車3両、そして改番直前の1952年度に広浜車3両と富岩車2両の計10両でである。
 譲渡されなかった車両で目立つのは、身延、豊川、伊那の木造付随車である。各地の電鉄にとって使い勝手が悪そうな車種であり、特に身延のそれは客車そのものであった。逆に旧・国鉄モハ1系は木造車であっても譲渡された事例が多かった。

 一方、1953年改番以降に廃車になった旅客車は127両あったが、譲渡された車両は70両(約55%)に留まる。特に1958年度を最後に譲渡数が大きく減っていることがわかる。これは買収国電の淘汰が進み、残存数が少なったことが一番の理由だが、1965年度以降に富山港線で廃車になった車両が1両も譲渡されなかったことも大きい。この年代は中小私鉄に対して西武鉄道が多くの車両を譲渡していたことも背景にあげられるだろう。


 続いて譲渡の傾向を鉄道管理局別に見てみたい。
まず目につくのが、譲渡可能な車両を全て譲渡した長野鉄道管理局(大糸線)である。全車が信濃鉄道の木造車である。これは長野局の範囲および近隣に中小電化私鉄が多く、それらにとって使いやすいHL制御、直通制動の車両だったことが理由にあげられよう。またその中には、長野電鉄のように緊急的に車両を必要としたところ(※1)があったのも好都合であった。

1958年までの金沢鉄道管理局(富山港線)も木造車を含む割に譲渡率が高めなのは、比較的近隣に存在した複数の私鉄が譲り受けたことが関係していると思われる。静岡鉄道管理局(飯田線)も譲渡率が高めだが、ここの場合は弘南鉄道が大量に身延車を導入したことも理由に挙げられよう。

 これに対して、譲渡率が低いのが仙台鉄道管理局(仙石線)である。1948〜1963年で廃車になった24両のうち譲渡されたのは6両である。譲渡先も少なく、高松琴平電気鉄道と弘南鉄道のみである。東北地方には狭軌の電鉄線は9路線あったが、中部地方の事業者と異なり殆どが興味を示さなかったことが理由にあげられよう。なお宮城車の譲渡事例のうち他の3例3両は転出先で廃車になったものである。
 宮城車の譲渡事例が少ないこと・・・特にモハ800について・・・は指摘されることがあるが、その理由の一つは多くの車両が配置されていた仙鉄局の地理的な事情と判断したい。

 一方で、山陽3線区を抱える岡山鉄道管理局・広島鉄道管理局の事情を考察してみると譲渡された車両に傾向があるのが伺える。
1954〜1959年度に淘汰された車両のうち、全長16m級未満の11両(鶴見車:6、南武車:3、宮城車:2)についてはほぼ全数の10両が譲渡されたのに対し、16m級以上の22両は売れ行きが半分程度になる。さらにこの22両中、昭和初期に製造された9両(豊川車:7・青梅車:2)は全て譲渡されたのに対し、昭和10年代に製造された13両(鶴見車:6・青梅車:3・南武車:4)は1両しか売れなかった(他に6両(宇部車:2、鶴見車:3、南武車:1)を救援車に改造)。鶴見車のうち2両は4扉車、青梅車3両は全長18800mmと長い点がハンデになったと考えれれるが、残りの8両はオーソドックスな17m級以下の3扉車である。これは「残存価格を基準にするため、売却価格が車齢が若い車両ほど高かったゆえ」という見解がある(※2)。上記の事実はたしかにこの説を裏付けている。

 なお、山陽3線区では、1962〜1963年度に残る制御車7両も廃車になる。このときは全車昭和10年代に製造された車両だが、やはりなぜか鶴見車だけが売れ残った。

(※1) 小林宇一郎「信濃鉄道の電車-初代20系ものがたり-」鉄道ピクトリアル709号(2001年11月)
(※2) 久保敏・小山政明編『鉄道青春時代―国電3』p.102 電気車研究会 2012年


(2020.7.18 公開)


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