●南武鉄道→国鉄南武線(旧 五日市鉄道区間を除く)
1944年4月1日買収

<路線概要>
 今は完全に東京の通勤線になった南武線は、もともと多摩川の砂利を運搬する鉄道として計画されたことに始まる。その名も東京砂利鉄道(後に国鉄下河原線になる初代とは別)として、川崎〜大丸(南多摩)と矢向〜川崎河岸間の免許を取得する。そして、1921年に社名を南武鉄道に改め、会社が設立された。その後、計画段階で多摩川に橋を架け立川・国分寺へ延長することを決定した。この川崎〜立川というルートに対し、浅野セメントが青梅、五日市方面から工場のある川崎へ原料(石灰石)の輸送路として着目、後に株式の大半を掌握して系列下においた。

 1927年3月、川崎〜登戸及び矢向〜川崎河岸(貨物線)が開通した。以降、大丸、屋敷分(分倍河原)と延伸し、1929年12月に立川まで全通した。また、向河原〜市ノ坪の貨物線を1929年に開業し、国鉄新鶴見操車場との連携輸送も開始した。そして、浅野セメント・日本鋼管の工場が存在する浜川崎へ線路が伸びたのは1930年(当初貨物線、1931年旅客営業開始)、翌年には南武鉄道の立川と青梅電気鉄道の西立川を結ぶ連絡線(立川〜武蔵中ノ原は五日市鉄道と共用)が完成し、ここに浅野セメントの一環輸送が実現することになる。

 しかし、不況下の開業のため営業成績は不振を極めた。これが好転するのは、日中戦争の開戦と立川・小杉周辺の工場立地に伴う輸送の急激な増加であった。1939年なって配当に回復、1940年9月1日には同じ浅野系列の五日市鉄道(立川〜拝島〜武蔵五日市〜武蔵岩井、現五日市線 当時非電化)を合併し、また川崎〜向河原のみの複線区間を全線に拡大すべく工事を行った(但し買収前に完成したのは川崎〜登戸間 一部を除く)。
 しかし、この経営を好転させた「戦争」が南武鉄道を国有化に導いたのは皮肉な結果と言うべきだろうか。特に、貨物の一環輸送を目的として、浅野系列の鶴見、青梅、奥多摩と合併する構想があったが、この協議途中で鶴見が買収されてしまったため残る3社で合併契約を1943年9月を交わし、1944年3月に「関東鉄道」となる予定だった。しかし、買収が決まった為この計画は破談。結局、1944年4月1日に国有化された。

 浅野系鉄道各社は敗戦後に他5社と共に返還運動を起こした。一部疑獄事件まで起こしたが、国鉄時代の設備投資などが問題になり実らなかった。その後も、企業としての南武鉄道は存続し、アサノ不動産→太平洋不動産として新宿新南口で営業を続けている(代表的なものが新宿パークホテル)。
 また、五日市鉄道の子会社を引き継いだ立川運輸自動車は、小田急系列になったものの立川バスとなって盛業中である。一方南武鉄道が経営していた自動車部門はこの立川運輸が引き続き経営していたが、戦後、川崎市交通局に譲渡されている。

 なお、買収後、旧五日市鉄道の武蔵中ノ原〜拝島間は、青梅線の平行路線として1944年に撤去され、戦後正式に廃線になった。南武線の複線化は1960年代になって再開され1966年に完成している。また、五日市線も1961年に電化された。一方で、大久野〜武蔵岩井は1971年(同時に五日市〜大久野の旅客営業も)、川崎河岸支線は1972年に、そして武蔵五日市〜大久野は1982年に廃止されている。

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