●南武鉄道→国鉄南武線(旧 五日市鉄道区間を除く)
1944年4月1日買収

<車輛解説 前篇>
 南武鉄道は開業以来、木造省電が入線するまでは15m級のモハ100形を使用していた。これは当時、隣接する小田原急行モハ1形とほぼ同じ大きさであり、制御装置もHLと共通項が多かった。このため、南武と小田急ではこの2形式の貸し借りをしばしば行っていたという。これが頻繁に行えたのは、南武の登戸〜宿河原間と小田急の稲田登戸(現:向ヶ丘遊園)の間に連絡線が存在したためで、本来は貨物輸送に使用されていた。

 当線の買収理由の一つに沿線に急増した工場への通勤客輸送を支えられなくなったことがあるが、国有化後も車両の不足は変わらなかった。この解消を行いたくとも、純然たる地方私鉄規格のため国鉄標準設計車が入線できず、当初は嫌われ者の青梅電鉄の車輛を転属させたりしたが追いつかなかった。そして、ついにモハ50等を国鉄規格車が入線可能な小田急(当時は東急小田原線)に貸し、同線の1600形を借用して急場を凌ぐという大英断が下された。この借用は、路線改良の進展で終了し、逆に小田急がモハ100形を借り入れたこともある。これら南武線と小田急のやりとりも先述の連絡線を使用して行ったようである。しかし連絡線は1967年に廃止になり、今はその痕跡すら分からない。
 買収車自体も国鉄標準設計車に追われるように山陽地区に転出していった。だが、電機機関車だけは古巣に残り、石灰石列車牽引の役目を全うした。


●旅客車(1) 15m級車    変遷表はこちらです。
・モハ100(モハ100〜102)→モハ100→クハ6000(〜6003)
 汽車会社製の15m級電動車である。まず開業にあたり1926年に製造されたのが、モハ100〜106である。1928年に増備したモハ107〜111と1931年増備のモハ112〜115はベンチレーターがお椀形からガーランドなった。
 買収後は戦災で2輛を失い、その後もモータ出力が低いことが理由か廃車やTc化されるものが続出、山陽地区に転属し1953年改番時に使用されていたのは、クハ6000〜6003の僅か4輛であった。だが、大半は地方私鉄に譲渡された。

 まず、1949年に電化した流山電気鉄道はモハ107、115、106を購入しモハ101〜103とした。1955年にはクハ6002が再電装の上入線しモハ105(104は忌み番で欠番)になり、結果各タイプから4輛が揃い、同社の顔となっていた。その後も長いこと使用されたが、西武501系の1201系が入線したことで1977年頃に相次いで除籍されている。

 同様に戦後電化ブームで電化した東濃鉄道駄知線にも、1951年にモハ101、102、104が入線し、クハ201〜203になり、クハ202と203は2段窓に改造された。このうちクハ202はサハ202になり笠原線を走ったこともある。また、クハ203は電装されモハ103になった。その後、1973年に東濃鉄道駄知線は水害で橋梁が流され、休止後廃線になった。電車はもと西武車が名古屋鉄道と総武流山電鉄に引き取られたほかは放置されていた。
 が、長尾線昇圧を控え車輛数をそろえる必要性があった高松琴平電鉄が購入を決定、東芝製の自社発注車と共に同社に入線した。もと南武車は201、202、103の順に81、82、73になった。しかし、放置による痛みが激しいことは拭い切れず、入線後8年目の1983年に82と73は除籍された。81はその後も長尾線で限定運用についていたが、1994年に志度線に移動した後は殆ど走行する機会がなくなり、車輛近代化の推進により1998年に除籍・解体された。

 秩父鉄道には1949年にモハ108がクハ21として入線した。しかし、折からの木造車鋼体化進行に合わせ当車も標準車体に載せかえられたため、旧車体は弘南鉄道に渡り1955年に国鉄払い下げのD‐16と合わせて電動車化しモハ2230になった。しかし、ここも安住の地ではなく1961年の同鉄道の昇圧で不要になり、日立電鉄に譲渡された。入線に際し番号は変更なかったが、車体中央にもドアを設けた。その後車体更新が行われ、窓が大きくなり2段窓化の上で使用された。
 熊本電鉄は、クハ6003、6001を購入した。同社が保有していた、もと国鉄モハ1系木造車のモハ201(国鉄モハ1030)・202(モハ313=鶴見の出戻車)の鋼体化という意味で活用され、初代の電気部品を取り付けて2代目モハ201・202となった。1986年、御代志〜菊池の廃線と東急5000系購入で余剰になり除籍されたが、1両は暫らく泗水駅跡に放置されていたらしい。
高松琴平電気鉄道志度線81(南武モハ101)
1998年4月18日 今橋
総武流山電鉄105(南武モハ113)
1979年10月 流山 (提供:ななまる様)

●旅客車(2) 17m級車    変遷表はこちらです。
・モハ150(151〜160)→モハ150→モハ2000(〜2008)┬→
                       └→クモハ2010(〜2011)
・クハ250(251〜255)→クハ250→クハ6010(〜6013)

 関東窓配置の車両で、モハ151〜160が1941年帝国車両、クハ251〜255が1942年汽車会社製である。戦災でそれぞれ1両ずつを失ったが、その後はまとまって宇部線→可部線と転属し1953年改番でモハ2000クハ6010に改番、モハは一部を除きさらに富山港線に転属し昇圧まで主力で活躍、一方クハは1961年の可部線昇圧まで活躍した。なお1959年改番で、片運転台化されていたモハ2001、2008が新形式のクモハ2010形2011、2012になっている。なおクハ250形の方は早くに片運転台化されているが期日は不明である。
 このように国鉄で長らえたことは、却って私鉄への譲渡数が少ないことを意味し、モハ2000形では1958年以降豊川工場の入替車として使用されていたモハ2002が、1965年に大井川鉄道に譲渡されモハ308になったのみである。その大井川での寿命も長くはなく、1972年に名義上モハ3822に改造されて廃車になった。なお、再晩年は北陸鉄道から購入し、昇圧対応工事が未施工だったモハ6010-6011の牽引に使用されたこともある。また、この車輛はグローブベンチレーターに改造されていた。
 また、モハ2004は1960年に救援車のクエ9424に改造され津田沼電車区に配置されていた。

 一方クハ6010形の方は4両中3両が譲渡されている。伊豆箱根鉄道にはクハ6011が1965年に入籍しクハ27に、またクハ6013が1967年に電装の上モハ36になり、いずれも大雄山線に配置された。クハ27は、1977年に伊予鉄道が焼失車の代替として購入し、電装してモハ212として使用したが、1985年にもと京王2010系のモハ800形の入線に伴い廃車になった。
 そしてクハ6012は高松琴平電気鉄道が1964年に購入し、琴平線の850になった。一時期休車状態に陥ったが、1981年に長尾・志度線に転属し、大形車として活躍した。当初志度線では使用不可だったが、路線改良で入線可能になり、1994年の志度線分断時に同線の所属になった。大形車のため安泰かと思われたが、車輛近代化では制御車を優先的に廃車にすることになり、1998年の621‐622入線に伴い真っ先に除籍・解体されてしまった。
クエ9424(南武モハ156 現除籍・解体)
画像提供 コトキチ様
高松琴平電気鉄道志度線850(南武クハ253 現除籍・解体)
95年8月12日 今橋

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